9年
王莽が新を建国、前漢が滅亡。
後漢前の政変で、王莽が前漢を倒し新王朝「新」を樹立した歴史的転換点です。
紀元9年、外戚出身の王莽が前漢の権力を簒奪し、新政権である「新」を建国しました。
前漢皇帝から正式に禅譲を受けたと称し、独自の土地制度や通貨改革を実施。
しかし急進的な改革は社会混乱を招き、各地で反乱が頻発しました。
結局、数年後の反乱により新政権は崩壊し、東漢王朝誕生の端緒となりました。
中国史における王朝交替の象徴的な事件です。
王莽
新
前漢
236年
ファビアヌスがローマ教皇に即位。
ローマ初期の教皇ファビアヌスが信徒統率を強化し、教会組織を整備した時期です。
236年1月10日、ファビアヌスがローマ司教(教皇)に選出されました。
彼は教務を整理し、7名の助祭を任命して教会行政を強化。
また、迫害の中で殉教者の遺骸を収蔵するカタコンベの整備を進めたと伝えられます。
その統治は約14年続き、後世の教皇制度確立に影響を与えました。
初期キリスト教史における重要人物です。
236年
ファビアヌス
観応2年12月23日
光厳上皇が三種の神器を南朝に渡す。
南北朝時代の政治的象徴として、神器を南朝側に移譲した重要な出来事です。
観応2年12月23日(1352年1月10日)、後醍醐天皇系の南朝と北朝対立の中で光厳上皇が三種の神器を南朝に引き渡しました。
神器の移譲は正統性の主張を象徴し、南朝の権威を強化する政治的意図がありました。
この事件は南北朝の分裂と皇位継承問題を浮き彫りにし、両朝の対立が一層深まる契機となりました。
神器は日本の皇位継承を示す重要なシンボルとして、後世にも関心を集めるエピソードです。
1352年
観応
12月23日
光厳上皇
三種の神器
南朝
1776年
トマス・ペインの政治評論パンフレット『コモン・センス』が発行。アメリカ独立の機運を高める。
トマス・ペインの著作『コモン・センス』が刊行され、独立運動の機運を一気に高めました。
1776年1月10日、トマス・ペインのパンフレット『コモン・センス』がフィラデルフィアで刊行されました。
分かりやすい平易な文章でイギリスからの独立を強く主張し、広範な読者層に支持。
数か月で10万部以上を売り上げ、植民地全体の独立運動を勢いづけました。
パインの論説は政治評論の新たなスタイルを示し、後の革命文書にも影響。
アメリカ独立の象徴的著作として不朽の名声を得ています。
1776年
トマス・ペイン
コモン・センス
アメリカ
1873年
日本で徴兵令が施行(以後、現役兵の入営日となる)。
明治政府が国民皆兵の制度を整え、日本近代軍隊の基礎を築いた日です。
1873年1月10日(明治6年12月9日)、徴兵令が施行され、20歳以上の男子は3年間の現役兵役義務を負うことに。
士族や特権階級を問わず、国民全体を軍事力の担い手とする方針を明確化。
近代国家建設を進める一環として欧米式の軍制度を導入。
これにより国家統制下の近代的軍隊が整備され、日清・日露戦争への対応力を強化。
日本軍の基礎体制確立における重要な行政改革でした。
1873年
日本
徴兵令
1913年
チベット・モンゴル相互承認条約調印。
チベット政府とモンゴル臨時政府が相互承認条約を調印し、独立を相互に承認した出来事。
1913年1月10日、チベット政府とモンゴル臨時政府との間で相互承認条約が調印された。
清朝崩壊後、新たに独立を宣言した両地域は互いの主権を承認し、友好関係を築くことを目的とした。
条約では国境線の画定や相互代表部の設置などが盛り込まれた。
しかし列強諸国や中国政府は公式にはこの独立を認めず、条約の国際的効力は限定的だった。
それでも地域内の政治的安定を図る試みとして、後の外交関係に影響を与えた。
1913年
チベット・モンゴル相互承認条約
1920年
ヴェルサイユ条約が発効。国際連盟が発足。
ヴェルサイユ条約の発効により国際連盟が設立され、第一次世界大戦後の新たな国際秩序が始まった。
1920年1月10日、1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約が公式に発効した。
第一次世界大戦の講和条約として、ドイツ帝国に厳しい賠償と軍備制限を課した。
同時に国際連盟が設立され、平和維持と集団安全保障の実現を目的とした。
設立当初は加盟国が51か国で、スイスのジュネーヴに本部が置かれた。
しかしアメリカ合衆国は議会で批准されず、創設メンバーに含まれなかった。
国際連盟はその後の紛争解決や条約監視に一定の役割を果たしたが、第二次世界大戦を防げなかった。
1920年
ヴェルサイユ条約
国際連盟
1922年
アーサー・グリフィスがアイルランド自由国の国民議会(ドイル・エアラン)議長に就任。
アーサー・グリフィスがアイルランド自由国の国民議会議長に就任し、新国家の立法機関を主導した。
1922年1月10日、アイルランド自由国の国民議会(ドイル・エアラン)がアーサー・グリフィスを議長に選出した。
グリフィスはサイン・フェイン党の指導者で、英愛条約の交渉首席代表を務めた人物である。
彼は自由国成立の立役者として暫定政府を主導し、新国家の基盤づくりに尽力した。
議長就任により議会運営の中心となり、憲法制定や行政組織の整備を推進した。
しかし国内では条約支持派と反対派の対立が激化し、内戦の兆しもみられた。
1922年
アーサー・グリフィス
アイルランド自由国
ドイル・エアラン
1946年
第1回国際連合総会がロンドンで開幕。
ロンドンで第1回国際連合総会が開幕し、新たな国際平和維持機構としての活動が始まった。
1946年1月10日、ロンドンのメソジスト中央会堂で第1回国際連合総会が開幕した。
国際連合憲章の発効を受け、新たな国際平和維持機構としての活動が正式に始まった。
当初の加盟国は51か国で、集団安全保障や紛争予防が主要議題となった。
総会ではトリグベ・リーが初代事務総長に選出され、組織運営が本格化した。
連合内の各委員会や専門機関の設置など、国際協力体制の枠組みが形成された。
1946年
国際連合総会
ロンドン
1947年
国際連合安全保障理事会決議16が採択、トリエステ自由地域が承認される。
国連安保理決議16が採択され、トリエステ自由地域の設置が承認された出来事。
1947年1月10日、国連安全保障理事会決議16が採択され、トリエステ自由地域の設置が承認された。
トリエステはイタリアとユーゴスラビアの間に位置し、戦後処理の重要課題とされていた。
決議により独立した中立地域として国連の信託統治下に置かれる計画が示された。
しかしソビエト連邦と西側諸国の対立により実現は困難を極めた。
最終的には地域がA地区とB地区に分割され、信託統治案は修正されていくこととなった。
1947年
国際連合安全保障理事会決議16
トリエステ自由地域
1979年
ヘン・サムリン政権によるカンプチア人民共和国が成立。
1979年、ベトナム軍の支援を受けたヘン・サムリン政権がカンプチア人民共和国の成立を宣言しました。
1979年1月7日にベトナム軍がプノンペンに進駐し、ポル・ポト派民主カンプチア政権を崩壊させました。
その後、ベトナムの支援を受けたヘン・サムリンを首班とするカンプチア人民共和国の新政府が樹立されました。
公式には1979年1月10日に成立が宣言され、新政権はソビエト連邦を含む東側諸国から支持を受けました。
国際的にはポル・ポト派の残党による抵抗や米中両大国の対立など複雑な情勢を生み出しました。
この出来事はカンボジアの政治的再編と冷戦下の地域情勢に大きな影響を与えました。
1979年
ヘン・サムリン
カンプチア人民共和国
1984年
アメリカ合衆国とバチカンが117年ぶりに国交回復。
1984年、アメリカ合衆国とバチカンが約117年ぶりに正式な国交を再開しました。
1984年1月10日、アメリカ合衆国とバチカン市国は約117年ぶりに正式な国交を再開しました。
1867年にアメリカがローマ教皇庁から一時撤退して以来、外交関係は途絶えていました。
この再開はロナルド・レーガン大統領とヨハネ・パウロ2世の親密な関係が背景にあります。
両国は大使館レベルではなく大使級外交代表部を設置し、相互に外交官を派遣しました。
国際社会は冷戦下の宗教外交として注目し、宗教と政治の接点として評価しました。
1984年
バチカン