1055年
テオドラが東ローマ帝国女帝に即位。
テオドラが東ローマ帝国の女帝に即位。中世ビザンツ帝国における女帝の登場は異例で、政治や宗教に大きな影響を与えました。
テオドラは東ローマ皇帝コンスタンティノス8世の姉として生まれた貴族女性です。
1055年1月11日、コンスタンティノス8世の死去に伴い、唯一の合法的な後継者として単独で皇位を継承しました。
彼女は40年以上にわたり共同統治者として影響力を持った後に初めて単独で女帝となり、東ローマ帝国の歴史において稀な女帝即位を果たしました。
在位期間は短く約1年でしたが、宮廷改革や官僚制の整備を行い、帝国政治に安定をもたらしました。
その死後、マケドニア朝最後の皇帝とも呼ばれる彼女の時代は、新たなマケドニア朝の盛衰を象徴する重要な節目となりました。
1055年
テオドラ
東ローマ帝国
天文15年12月20日
足利義輝が近江坂本の地で将軍に就任する。
足利義輝が室町幕府第13代将軍に就任し、若き将軍として幕政の表舞台に立ちました。
義輝は足利義晴の子として生まれ、1546年に家督を継ぎ、翌年1月11日に近江坂本で正式に室町幕府第13代将軍に就任しました。
将軍就任時の年齢はわずか14歳でしたが、京の権力者であった三好長慶ら諸勢力との緊張が高まる中で将軍権威の再興を目指しました。
就任直後から幕府の財政再建や統治機構の整備に取り組み、将軍職の権威回復を図ろうとしました。
しかし周辺大名勢力との対立は深まり、のちの永禄の変など波乱の時代へとつながっていきます。
義輝の治世は父義晴・後継者義昭らとの協力と対立を交えながら進行し、室町幕府終焉への序章となりました。
1547年
天文
12月20日
足利義輝
近江坂本
将軍
1878年
太政官布告により伊豆諸島が静岡県から東京府に移管。
太政官布告により伊豆諸島が静岡県から東京府管轄へ移管され、行政区画が再編されました。
1878年1月11日の太政官布告により、伊豆諸島が静岡県から東京府の管轄下へ移管されました。
この行政区画再編は明治政府による地方統治制度整備の一環で、首都圏の行政機能強化が目的でした。
伊豆諸島は地理的に東京に近く、海路交通の拡充や警備上の必要性から東京府管理に適すると判断されました。
移管後は東京府による自治体組織や施設整備が進められ、地域住民の行政サービスが向上しました。
この変更は今日の東京都域が形成される過程における重要な一歩となりました。
1878年
太政官
伊豆諸島
静岡県
東京府
1913年
チベットとモンゴルが「チベット・モンゴル相互承認条約」を締結
チベットとモンゴルが相互承認条約を締結し、互いの独立を承認し合う外交関係を樹立しました。
1913年1月11日、チベットとモンゴルが『チベット・モンゴル相互承認条約』を締結しました。
両地域は当時の清朝崩壊後に独立を宣言しており、互いの主権や領土を相互に承認することを目的としました。
条約締結により、ヒマラヤ高地と中央アジアのチベット仏教文化圏における連携が強化されました。
しかし後に英中露の大国政治に翻弄され、条約の実効性は限定的となりました。
この協定は第一次世界大戦前夜のアジア情勢を反映する外交的試みとして歴史に刻まれています。
1913年
チベット
モンゴル
チベット・モンゴル相互承認条約
1919年
トランシルバニアがルーマニアに併合。
オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後、トランシルバニア地方がルーマニアに併合された歴史的出来事です。
第一次世界大戦の終結とオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊を受け、トランシルバニアの最高国民評議会は1919年1月11日にルーマニアへの併合を決議しました。併合は主にルーマニア語系住民の民族的要請によるもので、ハンガリー側との対立を深めました。連合国は戦後講和条約の議論の中でトランシルバニアの帰属を取り扱い、翌年のトリアノン条約で正式に承認されました。併合により地域の行政・司法制度がルーマニア化され、土地改革などの政策が進められました。ハンガリー系住民は少数派となり、民族間の緊張が続く要因ともなりました。現在も歴史的背景を巡る論争が見られる象徴的な事件です。
1919年
トランシルバニア
ルーマニア
1938年
厚生省設置。
日本政府が厚生省を設置し、公衆衛生や社会福祉の専門行政機関が誕生しました。
1938年1月11日、内閣官制の改正により厚生省が正式に発足しました。これまでの内務省衛生局と農商務省福祉部を再編し、公衆衛生、医療、社会福祉を専門的に担当する組織として設置されたものです。設置後は国民病対策や衛生環境改善が強化され、結核予防や保健所の制度整備が進められました。社会保障制度の基礎構築にも着手し、高齢者福祉や母子保健の施策が立案されました。戦後の厚生労働省設立までの流れを決定づける重要なステップとなりました。
1938年
厚生省
1943年
中華民国駐米大使魏道明がアメリカのハル国務長官とワシントンで中米平等新約を、外交部長宋子文がイギリスのシーモア(Seymour)駐華大使とインド帝国代表リチャードソンと重慶で中英平等新約を締結し、アメリカとイギリスが中国における権益を放棄する。
中華民国と米英が対等関係を確認する新約を締結し、列強の中国権益放棄を正式化しました。
第二次世界大戦中の1943年1月11日、駐米大使魏道明と米国国務長官ハルがワシントンで中米平等新約を締結。
同日、宋子文外交部長は重慶で英国駐華大使シーモアとインド帝国代表リチャードソンと中英平等新約に調印。
これらの条約により、アメリカとイギリスは中国における従来の治外法権や租界権などの権益を放棄。
中国は主権国家として西洋列強と対等な関係を構築する一歩を踏み出しました。
戦局が中国側に有利へ転じる中、中国の国際的地位向上と主権回復が象徴的に示された出来事です。
1943年
中華民国
魏道明
ハル
国務長官
ワシントン
中米平等新約
中国語版
宋子文
Seymour
インド帝国
リチャードソン
英語版
重慶
中英平等新約
権益
1946年
エンヴェル・ホッジャがアルバニア社会主義人民共和国樹立を宣言し、最高指導者に就任。
エンヴェル・ホッジャがアルバニア社会主義人民共和国の樹立を宣言し、国家の最高指導者に就任しました。
第二次世界大戦後の1946年1月11日、エンヴェル・ホッジャはアルバニア社会主義人民共和国の成立を宣言。
ホッジャは共産党指導者として政権を掌握し、国家元首かつ政府の最高指導者に就任しました。
新政権はソ連や東欧諸国を範として急進的な社会主義改革を推進。
農地改革や国有化政策を断行し、政治的統制を強化しました。
ホッジャ体制は以後約4半世紀にわたりアルバニアを一党独裁国家として統治し続けました。
1946年
エンヴェル・ホッジャ
アルバニア社会主義人民共和国
1958年
進歩党事件: 大韓民国の野党・進歩党の曺奉岩委員長・尹吉重幹事長ら党首脳部を国家保安法違反で一斉逮捕。
大韓民国で進歩党の幹部らが国家保安法違反の疑いで一斉逮捕され、政治弾圧が強化されました。
1958年1月11日、大韓民国政府は野党・進歩党の委員長曺奉岩と幹事長尹吉重ら党首脳部を国家保安法違反で逮捕。
政府は共産主義者や左翼勢力の摘発を名目に、野党の活動を厳しく制限。
進歩党事件は政治弾圧の象徴的な出来事となり、反政府運動や言論の自由に大きな影響を及ぼしました。
多くの活動家が拘束や拷問を受け、人権問題として国際的にも批判が高まりました。
この事件は後の韓国政治史における権威主義体制の一端を示すものとされています。
1958年
進歩党事件
大韓民国
進歩党
曺奉岩
尹吉重
国家保安法
1962年
中国共産党の「七千人大会」が開会。毛沢東党主席が大躍進政策の失敗を認め自己批判する。
中国共産党の七千人大会が開かれ、毛沢東が大躍進政策の失敗を認め自己批判しました。
1962年1月11日、中国共産党は「七千人大会」と呼ばれる党内総会を北京で開幕。
毛沢東は大躍進政策に伴う農村の飢饉や経済混乱を認め、自身の政策失敗を初めて公に批判。
会議には全国から党幹部約7000人が参加し、政策総括と批判・自己批判が行われました。
この大会は文化大革命前の重要な転換点とされ、党内の権力バランスにも影響。
大躍進政策の反省を踏まえ、以後の経済建設路線への転換が模索されました。
1962年
中国共産党
七千人大会
毛沢東
大躍進政策
自己批判
1969年
石田和外が第5代最高裁判所長官に就任。
石田和外が第5代最高裁判所長官に就任しました。
1969年1月11日、石田和外が日本の第5代最高裁判所長官に就任。
法曹界で長年のキャリアを積んだ石田は、司法の独立と法の支配を重視する立場で知られていました。
彼の就任は憲法解釈や基本的人権保障に関する判例形成に大きな影響を与えました。
在任中には重要な憲法判断や司法改革が進められ、最高裁の役割や権限が明確化。
石田のリーダーシップは後の日本の司法制度の発展にも寄与しています。
1969年
石田和外
1972年
東パキスタンがバングラデシュに改称。
東パキスタンがバングラデシュと改称し、新国家の誕生を正式に宣言しました。
1972年1月11日、東パキスタンは「バングラデシュ共和国」と国名を改称。
1971年の独立戦争を経て、イスラム系自治領から主権国家への移行が完了。
新国名はベンガル民族の歴史や文化を反映したものとして採用されました。
パキスタンからの分離独立は国際的にも注目され、地域の政治地図を一変させました。
バングラデシュは急速な国家建設と再建に取り組み、現在に至るまで独自の発展を続けています。
1972年
バングラデシュ