1486年
ランカスター家のイングランド王ヘンリー7世がヨーク家のエリザベスと結婚し、薔薇戦争で対立していたランカスター家とヨーク家を統一。
ヘンリー7世とエリザベス・ヨーク女王の結婚により、バラ戦争で分断していたイングランド貴族の統一が実現しました。
1486年1月18日、ランカスター家のヘンリー7世はヨーク家のエリザベスと結婚し、長年にわたる内乱「薔薇戦争」の両雄を結びつけました。
この結婚により、テューダー朝が確立し、イングランド王権の安定化が図られました。
戦争終結後の和解政策の象徴として、中世イギリス史において重要な転換点となりました。
結婚式はロンドンのウエストミンスター寺院で執り行われ、その華やかな儀式は国民的祝典となりました。
以降、テューダー朝は約100年にわたりイングランドを統治し、ルネサンス文化の発展にも寄与しました。
1486年
ランカスター家
ヘンリー7世
ヨーク家
エリザベス
薔薇戦争
1654年
ウクライナでペラヤースラウ会議が行われ、結果ウクライナはロシアの保護下に入る。
ウクライナ・コサック国家がロシア皇帝の保護を求め、両者の関係が深まりました。
1654年1月18日、ウクライナ・コサックの指導者ボフダン・フメリニツキーらがペレヤスラフで開催された会議に参加しました。
会議の結果、ウクライナ側はロシア皇帝アレクセイ1世の保護下に入ることを決定しました。
これにより、ロシアとウクライナの関係は軍事的・政治的に密接化し、その後の東欧情勢に大きな影響を与えました。
会議の合意は後に「ペレヤスラフ条約」と称され、ウクライナ国家の独立性低下とロシア拡張の契機となりました。
歴史的にロシア・ウクライナ関係を考える上で重要な転換点です。
1654年
ウクライナ
ペラヤースラウ会議
ロシア
1701年
フリードリヒ1世が初代「プロイセンの王」に即位。
ブランデンブルク選帝侯フリードリヒがプロイセン王として即位し、プロイセン王国が誕生しました。
1701年1月18日、マルク・ブランデンブルク選帝侯フリードリヒがプロイセン公爵から初代プロイセン王フリードリヒ1世として即位しました。
ヴェストファーレン条約などを背景に、神聖ローマ帝国内における選帝侯の地位とプロイセン領の強化を図りました。
王号の獲得により、ブランデンブルク選帝侯領は王国へ格上げされ、諸侯間での地位が大きく向上しました。
プロイセン王国は後のドイツ統一運動の中心勢力へと成長し、ヨーロッパ政治における重要なプレイヤーとなりました。
即位式はベルリンやプロイセン宮廷で華やかな儀式を伴い執り行われました。
1701年
フリードリヒ1世
プロイセンの王
1871年
ヴェルサイユ宮殿においてプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位、ドイツ帝国が成立する。
プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立しました。
1871年1月18日、普仏戦争勝利の勢いを受けて、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として即位しました。
これにより、プロイセン主導の下にドイツ諸邦が統一され、新たなドイツ帝国が誕生しました。
ビスマルク首相の巧妙な軍事外交政策が結実し、ヨーロッパの勢力図が大きく変動しました。
帝国憲法では連邦構造と王侯の地位を保ちつつ、中央集権化が図られました。
ドイツ帝国は第一次世界大戦まで47年間存続し、欧州史に深い影響を与えました。
1871年
ヴェルサイユ宮殿
ヴィルヘルム1世
ドイツ帝国
1911年
幸徳事件(大逆事件)で幸徳秋水ら24名に死刑、2名に有期刑の判決が下される。
大逆事件の裁判で幸徳秋水らに死刑判決が下されました。
1911年1月18日、幸徳秋水ら24名に対し大逆罪で死刑、2名に有期刑の判決が下され、確定しました。
この「大逆事件」は明治政府による反体制運動の弾圧として広く知られています。
幸徳秋水らの死刑執行は翌年行われ、社会主義運動や自由主義者への弾圧を象徴する出来事となりました。
国内外で批判や論争を呼び、後の思想史や労働運動に大きな影響を与えました。
裁判記録や新聞報道は当時の世論や政府の姿勢を示す貴重な史料となっています。
1911年
幸徳事件
大逆事件
幸徳秋水
1915年
日本が対華21ヶ条要求を発する。
第一次世界大戦中の1915年、日本が中国に対して対華21ヶ条要求を提出しました。
1915年1月18日、日本政府は袁世凱政権の中国政府に対して「対華21ヶ条要求」を発表しました。
日本の権益拡大と租借地の拡大を目的としたこの要求は、中国の主権を著しく侵害する内容でした。
中国国内外で強い反発を招き、日中関係は緊張状態に陥りました。
列強の非難やアメリカの仲介も入り、最終的には一部削減を余儀なくされました。
本要求は帝国主義時代の東アジア情勢を象徴する事例として、国際法や外交史の重要なケーススタディとなっています。
1915年
対華21ヶ条要求
1919年
第一次世界大戦後処理のパリ講和会議が始まる。
第一次世界大戦後の世界秩序を決定するパリ講和会議が開幕しました。
1919年1月18日、フランス・パリで開かれたパリ講和会議が正式に開始されました。
アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなど連合国が主導し、敗戦国ドイツへの賠償や領土再編を議論しました。
ウッドロウ・ウィルソン大統領の14か条提唱や国際連盟設立構想が重要議題となりました。
会議は1920年まで続き、現代の国際関係や多国間外交の礎を築いた歴史的イベントです。
1919年
第一次世界大戦
パリ講和会議
1937年
独海軍練習艦エムデン号が訪日横浜港に入港。
1937年、ドイツ海軍の練習艦エムデン号が横浜港に入港しました。
親善訪問として行われた日独交流の一環です。
昭和12年(1937年)1月18日、ドイツ海軍の練習艦エムデン号が訓練航海の一環として横浜港に入港しました。
エムデン号はかつての巡洋艦を改装した艦で、乗組員は日本滞在中に親善行事や歓迎式典に参加しました。
訪問は両国間の海軍友好を深める狙いがあり、当時のメディアでも大きく報じられました。
市民や報道関係者は珍しい外国艦船の姿をカメラに収め、港は賑わいを見せました。
この入港は戦前の日独関係史の一端を示す出来事として記録されています。
1937年
エムデン号
1946年
名古屋の雑貨商・熊沢寛道が、南朝方の子孫だと名乗りを上げる(熊沢天皇)。
1946年、名古屋の雑貨商・熊沢寛道が自らを南朝の子孫と称し「熊沢天皇」を名乗りました。
ユニークな政治的主張として話題を呼びました。
昭和21年(1946年)1月18日、名古屋の雑貨商・熊沢寛道氏が南朝の正統性を主張し、『熊沢天皇』を称した声明を発表しました。
戦後の混乱期に古代朝廷復活を訴える一風変わった主張は、一部で注目を集めました。
氏は南北朝時代の歴史に立脚した論拠を掲げましたが、法的・社会的な支持を得るには至りませんでした。
この宣言は短期間で収束し、政治的影響は限定的でしたが、戦後社会の動揺を象徴する一幕として記録されました。
1946年
熊沢寛道
南朝
1952年
韓国の李承晩大統領が李承晩ラインを宣言。
1952年、李承晩大統領が韓国の海洋主権を主張する『李承晩ライン』を宣言しました。
日本との漁業権や領海問題をめぐる対立が激化しました。
朝鮮戦争休戦直後の1952年1月18日、韓国の李承晩大統領は自国沿岸を防衛線とする『李承晩ライン』を宣言しました。
このラインは日本海の大部分を韓国領海と主張するもので、日本の漁業関係者との衝突を招きました。
複数の日本漁船が拿捕されるなど、日韓間の外交摩擦が一層深刻化しました。
国際法上の領海概念を超えた一方的宣言は、後の国際交渉や海洋権益問題に波紋を広げました。
この宣言は今日に至るまで日韓海洋紛争の遠因とされています。
1952年
李承晩
李承晩ライン
1969年
東大安田講堂事件: 東大・安田講堂を占拠した学生を排除するため警視庁機動隊が出動。翌日封鎖を解除。
東京大学安田講堂占拠事件で機動隊が突入し、学生側の占拠が解除された。
1969年1月18日、東京大学本郷キャンパスの安田講堂を学生が占拠していた問題に対し、警視庁機動隊が突入した。
警視庁は催涙弾や実弾使用を示唆し、講堂内の学生を排除した。
この行動により講堂の封鎖は解除されたが、一部学生に怪我人も発生した。
事件は東大紛争の終息を象徴する出来事となり、全国の大学紛争に大きな影響を与えた。
メディアは警察の強硬姿勢を批判的に報道し、世論を二分した。
その後、大学側と学生との協議は継続されたものの、大規模な直接行動は減少した。
1969年
東大安田講堂事件
安田講堂
警視庁
機動隊
1969年
東大紛争を支援するとして神田駿河台近辺の大学生らが明大通り一帯をバリケード封鎖。(参考:神田カルチェ・ラタン闘争)
神田駿河台周辺の大学生が明大通りをバリケード封鎖し、東大紛争支援を行った。
1969年1月18日、東大紛争を支援するため神田駿河台近辺の大学生らが明大通り一帯をバリケード封鎖した。
学生たちはバリケードを築き、通行を遮断して市民や警察に抗議の意思を示した。
この行動は『神田カルチェ・ラタン闘争』とも呼ばれ、激しい衝突は回避されたものの緊張を生んだ。
当局は機動隊を配備し、道路封鎖の解除を求めて交渉を試みた。
最終的に学生は自発的に撤去し、東大安田講堂事件への連帯行動として注目された。
この闘争は学生運動全体の連帯意識を高める契機となった。
東大紛争
神田駿河台
明大通り
神田カルチェ・ラタン闘争