41年

ローマ帝国第3代皇帝カリグラがカッシウス・カエレア率いる親衛隊将校により暗殺される。クラウディウスが第4代皇帝に即位。

ローマ帝国第3代皇帝カリグラが暗殺され、クラウディウスが第4代皇帝に即位した。
ローマ帝国第3代皇帝カリグラは豪奢な生活と専制的な統治で知られていた。 紀元41年1月24日、親衛隊将校カッシウス・カエレアらによって宮廷で暗殺された。 その後、カリグラの叔父にあたるクラウディウスが皇帝に擁立される。 クラウディウスは穏健な統治を行い、帝国の安定を図った。 この出来事はローマ帝国の政治的転換点とされる。
41年 ローマ帝国 カリグラ カッシウス・カエレア 英語版 親衛隊 暗殺 クラウディウス
正慶4年/建武2年12月11日

箱根・竹ノ下の戦いで 足利尊氏が建武新政府に反旗を翻す。

足利尊氏が箱根・竹ノ下の戦いで建武新政府に反旗を翻した戦い。
建武元年(1334年)の護良親王擁立による皇権復古を果たした後、足利尊氏と後醍醐天皇との対立が深まった。 正慶4年/建武2年12月11日(1336年1月24日)、足利尊氏は箱根・竹ノ下で挙兵し、建武新政府に反抗した。 竹ノ下の地形を活かした戦術で幕府軍を翻弄し、尊氏軍は勝利を収めた。 この戦いは南北朝時代の緒戦として位置づけられ、尊氏の勢力拡大を決定づけた。 足利氏による南朝方との抗争は、以後数十年にわたり続いた。
1336年 正慶 建武 12月11日 箱根・竹ノ下の戦い 足利尊氏
1679年

イギリス王チャールズ2世がイングランド議会を解散。

チャールズ2世がイングランド議会を解散し、王権強化を図った政治的決定。
1679年1月24日、イギリス王チャールズ2世は議会を解散すると宣言した。 この決定は、議会による王権制限の動きを抑えるための措置であった。 当時、濫用された王権と議会の対立は深刻化しており、王は強硬な手段を選択した。 解散後の議会選挙では王支持派と議会権限派との攻防が続いた。 この出来事は後の名誉革命へとつながる政治的緊張の一端とされる。
1679年 チャールズ2世 イングランド議会
1742年

カール7世が神聖ローマ皇帝に即位。

カール7世が神聖ローマ皇帝として即位し、ハプスブルク家以外の皇帝が誕生。
1742年1月24日、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが神聖ローマ皇帝として即位し、カール7世となった。 前皇帝カール6世の死去に伴い、ハプスブルク家以外の皇帝即位は約300年ぶりの異例の事態であった。 即位にはオーストリア継承戦争が背景にあり、ヨーロッパ諸国の勢力抗争が展開された。 カール7世は皇帝権の強化とバイエルン領拡大を目指して統治した。 しかし、彼の治世は短く、後にマリア・テレジアの登場により再びハプスブルク家が復権した。
1742年 カール7世 神聖ローマ皇帝
1859年

アレクサンドル・ヨアン・クザがワラキア、モルダヴィア両公国の公に即位。1862年に両国を統一してルーマニア公国とする。

アレクサンドル・ヨアン・クザがワラキアとモルダヴィアの公に即位し、後のルーマニア統一の礎を築いた。
1859年1月24日、モルダヴィア議会はアレクサンドル・ヨアン・クザを公に選出し、両国を統治下に収めた。 同年同日にワラキアでもクザの即位が承認され、事実上の両公国統一が開始された。 クザは司法・行政・教育改革を推進し、近代的な国家建設に着手した。 1862年には正式にルーマニア公国が設立され、彼は初代公として就任した。 クザの改革はルーマニア国家形成の基盤となり、独立への道を拓いた。
1859年 アレクサンドル・ヨアン・クザ ワラキア モルダヴィア ルーマニア公国
1862年

ブカレストがルーマニアの首都になる。

1862年1月24日、ブカレストがルーマニアの首都として公式に定められました。ドナウ川沿いの都市が国家の政治・文化の中心地となりました。
1859年のワラキア公国とモルダヴィア公国の連合成立後、両公国の臨時首都はヤシとブカレストに分かれていました。1862年1月24日に連合法によって単一の首都をブカレストに統一することが決定し、行政機関が移転しました。この決定によりブカレストは政治・経済・文化の中心地として急速に発展を遂げました。オスマン帝国の影響下から独立を強めたルーマニアは、1881年に王国として君主制を確立。その後もブカレストは首都として建築や制度の近代化が進み、現在に至るまで歴史的建造物とともに国家の象徴となっています。
1862年 ブカレスト ルーマニア
1911年

大逆事件: 明治天皇の暗殺計画容疑で検挙された幸徳秋水ら11名の処刑が行われる。

1911年1月24日、大逆事件の被疑者11名が処刑されました。
大逆事件は明治44年(1911年)に発覚した政治的陰謀事件で、幸徳秋水をはじめとする自由民権運動家らが明治天皇暗殺未遂の疑いで逮捕されました。厳しい治安維持の下、裁判は迅速に進められ、同年1月24日に11名の死刑が執行されました。この処刑は国民に大きな衝撃を与え、当時の政治状況や言論弾圧の象徴として語り継がれています。また、事件を契機に政府は治安機関の強化を図り、以後の政治運動への弾圧が強まりました。今日においても言論の自由や裁判の公正性を考える上で歴史的教訓として研究されています。
1911年 大逆事件 明治天皇 幸徳秋水
1918年

ロシアの人民委員会議が、同年2月1日からグレゴリオ暦を導入することを決定。

1918年1月24日、ロシア政府がグレゴリオ暦導入を決定しました。
1917年のロシア革命後、暦の不統一が国際取引や外交に支障をきたしていたことから、ソビエト政権は旧暦(ユリウス暦)からグレゴリオ暦への移行を検討しました。1918年1月24日、人民委員会議(ソヴナルコム)は2月1日付け(旧暦)からグレゴリオ暦を採用する法令を公布しました。この変更によりロシア暦は13日進められ、国際暦と一致することになりました。鉄道ダイヤや官公庁の運用日程が再調整され、国民生活にも大きな影響を与えました。以降、ソ連のみならず周辺国もこの暦を採用し、国際的な標準化が進みました。
1918年 ロシア 人民委員会議 2月1日 グレゴリオ暦
1924年

ソ連のサンクトペテルブルクがレニングラードに改称。

1924年1月24日、ペトログラードの名称がレニングラードに変更されました。
ウラジーミル・レーニンの死を受けて、ソビエト政府は革命指導者を讃えるため都市名の変更を検討しました。1924年1月24日、旧ペトログラード(もともとはサンクトペテルブルク)は公式にレニングラードと改称されました。これによりレーニンを称える文化的・政治的象徴が都市名に刻まれることになりました。その後もレニングラードはソ連第二の都市として軍事・産業の要衝となり、第二次世界大戦中の包囲戦でも耐え抜いた歴史を持ちます。1991年のソ連崩壊後、住民投票により元のサンクトペテルブルクの名称に戻されましたが、レニングラードの呼称も多くの文献に刻まれています。
1924年 サンクトペテルブルク
1960年

民主社会党結成大会。

1960年1月24日、民主社会党の結成大会が開催されました。
社会党から分裂して結成された民主社会党は、穏健社会主義を掲げる政党として設立されました。 結成大会では、党の綱領や組織体制が承認され、初代党首に所定の人物が選出されました。 この分裂は日本の左右両派の政界再編に大きな影響を与え、以後の政局に新たな潮流を生み出しました。
1960年 民主社会党
1969年

美濃部亮吉東京都知事が東京都の公営ギャンブル全廃を発表。

1969年1月24日、美濃部亮吉東京都知事が都内の公営ギャンブル全廃を発表しました。
美濃部亮吉知事は、社会問題化していたギャンブル依存や不正行為の根絶を目的に、公営競馬や競輪、オートレースなどの廃止を表明しました。 この政策発表は東京都の財政構造にも影響を与え、賛否両論を巻き起こしました。 一方で、ギャンブルによる犯罪抑止や地域振興策の見直しを促す契機ともなりました。
1969年 美濃部亮吉 東京都
2000年

超党派野党、参議院に選択的夫婦別姓制度を求める民法改正案を提出。

参議院に選択的夫婦別姓制度を求める民法改正案が提出されました。
2000年1月24日、超党派の野党議員が参議院において夫婦別姓を可能にする民法改正案を提出しました。 同法案は結婚後の氏を夫婦別々にできる選択的夫婦別姓制度の導入を目指すものでした。 家族制度や男女平等の観点から長年議論されてきたテーマが正式に立法化の場に持ち込まれたことは画期的でした。 賛成派は個人の権利保障として評価した一方、反対派は家族の一体性が損なわれると主張しました。 その後も国会で審議が重ねられ、現在も改正の是非が議論されています。
2000年 夫婦別姓