ユリウス暦1月31日
火薬陰謀事件の実行責任者ガイ・フォークスが首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑される。
1606年2月10日、火薬陰謀事件の実行者ガイ・フォークスが残酷な死刑で処刑された。
1605年の火薬陰謀事件で標的の英国議会を爆破しようとしたガイ・フォークスは、翌年2月10日にロンドン塔で処刑されました。
処刑方法は首吊り・内臓抉り・四つ裂きという当時最も残酷なものでした。
この事件は英国史における陰謀事件として語り継がれ、毎年11月5日のボンファイア・ナイトの起源ともなっています。
1606年
ユリウス暦
1月31日
火薬陰謀事件
ガイ・フォークス
首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑
1763年
パリ条約が調印され、仏英間の七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)が終結。
1763年にパリ条約が調印され、七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)が正式に終結した。
1763年2月10日、フランス、イギリス、スペインなどヨーロッパ諸国によるパリ条約が締結されました。
これにより1756年から続いた七年戦争が終結し、植民地の領有権が大きく再編されました。
イギリスは北米のフレンチ・インディアン戦争で優位を獲得し、フランスから多くの領土を獲得しました。
この条約は近代世界史における大国間の均衡変動を象徴しています。
1763年
パリ条約
七年戦争
フレンチ・インディアン戦争
1913年
護憲派の民衆が東京の交番を襲撃。焼失52か所、破壊24か所。
1913年、護憲派の群衆が東京の交番を襲撃し、複数箇所が焼失・破壊された。
1913年2月10日、政友会の護憲運動を支持する民衆が東京市内の交番へ蜂起しました。
交番52か所が焼失し、24か所が破壊されるなど大規模な騒乱となりました。
当時の政府は治安維持と議会制度維持の間で対応に苦慮し、以降の政治対立を深める一因となりました。
この事件は大正デモクラシー期の政治動乱を象徴する出来事として知られています。
1913年
交番
1921年
宮中某重大事件、宮内省が裕仁親王(昭和天皇)と良子女王(香淳皇后)の婚約に変更がないことを発表する。
1921年、宮内省が裕仁親王と良子女王の婚約に変更がないことを発表した。
1921年2月10日、宮中某重大事件として注目された皇族の婚約問題で、宮内省は裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)の婚約に変更がないと正式に発表しました。
この発表は様々な憶測を呼んでいた噂を一掃し、皇室への国民の関心を落ち着かせる狙いがありました。
同時に当時の政治状況や内廷の動向にも大きな影響を与え、皇室儀礼の厳格さを改めて示す契機となりました。
1921年
宮中某重大事件
宮内省
昭和天皇
香淳皇后
1937年
中国共産党が中国国民党に第二次国共合作を提議。
1937年2月10日、中国共産党が中国国民党に第二次国共合作を提案。抗日統一戦線の結成を呼びかけました。
中国では日中戦争の激化を受けて国共両党間の協力の重要性が高まっていました。中国共産党は国民党に対し、毛沢東や周恩来らの指導の下で第二次国共合作を呼び掛けました。提案内容には抗日戦争の共同遂行や解放区の統治協力が含まれていました。これにより一時的に両党は抗日統一戦線を形成し、共産党の地位向上と国民党との敵対緩和が進みました。しかし、協力は一時的で、戦後の国共内戦再燃へとつながっていきました。今回の提案は中国近代史における重要な転換点となりました。
1937年
中国共産党
中国国民党
第二次国共合作
1940年
津田左右吉の『古事記及日本書紀の研究』『神代史の研究』などが、記紀を批判し皇室を冒涜しているとして発禁となる。
1940年2月10日、史学者・津田左右吉の歴史研究書が発禁処分に。記紀批判が皇室冒涜とされました。
津田左右吉は『古事記及日本書紀の研究』や『神代史の研究』などで神話的記述を批判的に再検証しました。これらの著作は学界で注目を集める一方、皇室や国家神道の権威を揺るがすものと見なされました。1940年2月10日、日本政府はこれらの書籍を発禁処分とし、流通や所持を禁止しました。処分の理由には皇室冒涜や国家の精神的支柱への挑戦が挙げられています。学問の自由と政府検閲の問題が改めて議論されるきっかけとなり、戦時下の思想統制の象徴的事例となりました。
1940年
津田左右吉
古事記
日本書紀
皇室
発禁
1948年
ソ連でジダーノフ批判が始まる。
1948年2月10日、ソ連でジダーノフ批判が始まる。党内の審査・粛清が強化されました。
ジダーノフ批判は共産党指導部におけるイデオロギー論争で、当時のソ連共産党第一書記アルチョーム・ジダーノフのスタンスが批判の的となりました。批判はスターリン派によって推進され、ジダーノフ派や批判者たちは党内での立場を追い詰められました。検閲や監視が強まり、多くの党員が異論を唱えたとして排除されました。この動きはソ連における政治的統制の一環であり、東欧衛星国にも影響を与えました。当時の緊張状況は冷戦の激化を象徴しており、共産主義陣営内部の分裂を浮き彫りにしました。
1948年
ソ連
ジダーノフ批判
1949年
片山内閣が総辞職を表明。党内における左右対立などの事情が重なったもの。
1949年2月10日、片山内閣が総辞職を表明。党内の左右対立が背景にありました。
1949年、衆議院選挙で連立与党が苦戦した後、片山哲内閣は党内の政策論争や左派・右派の対立に直面しました。政府は経済政策や公職追放法などを巡り意見の相違が表面化し、内閣運営が困難となりました。2月10日、片山内閣は総辞職を正式に表明し、政府機能の停滞を防ぐため新内閣の組閣が急がれました。野党は次期政局での主導権を奪う機会を狙い、政局は混迷に拍車をかけました。この辞職は戦後日本の政治安定の難しさを象徴する出来事となりました。
1949年
片山内閣
総辞職
1952年
連合国司令部の覚書によって吐噶喇列島(トカラ列島)が日本に本土復帰した。
1952年2月10日、連合国司令部の覚書により吐噶喇列島が日本の統治下に復帰しました。
第二次大戦後、南西諸島は連合国の管理下に置かれていました。
1952年2月10日、連合国司令部の覚書により吐噶喇列島が日本の本土に復帰しました。
吐噶喇列島は鹿児島県に属し、美しい自然と独自の文化を持つ島々です。
本土復帰後は日本の行政権が完全に回復し、地域の自治発展が進められました。
社会インフラの整備や観光振興が図られ、現在では観光客にも親しまれています。
1952年
吐噶喇列島
本土復帰
1962年
U 2撃墜事件でソ連に拘禁されていたアメリカの軍人フランシス・ゲーリー・パワーズと、アメリカで収監されていたソ連のスパイルドルフ・アベルが交換によりそれぞれ釈放される。
1962年2月10日、U-2事件のパイロットとソ連スパイが交換され、互いに釈放されました。
1960年にU-2偵察機がソ連上空で撃墜された事件を背景としています。
撃墜されたパイロット、フランシス・ゲーリー・パワーズはソ連に拘禁されました。
一方、ソ連のスパイ、ルドルフ・アベルはアメリカで服役していました。
1962年2月10日、両国はワシントンでスパイ交換を実施し、互いに釈放しました。
この交換は冷戦期の緊張緩和の象徴的出来事として知られています。
以後、東西間の情報戦や外交交渉に大きな影響を与えました。
1962年
U-2撃墜事件
フランシス・ゲーリー・パワーズ
ルドルフ・アベル
1965年
自衛隊が極秘に行っていた机上作戦演習「三矢研究」が衆議院で取り上げられ問題化。
1965年2月10日、自衛隊の極秘演習「三矢研究」が衆議院で問題化しました。
三矢研究は自衛隊が極秘に実施していた机上作戦演習の一つです。
主に仮想的な侵攻シナリオを想定し、部隊展開や防衛戦略を検討していました。
1965年2月10日、衆議院でこの演習の存在が明らかになり、大きな波紋を呼びました。
一部からは文民統制の観点や国家防衛の透明性が問われ、論議が活発化しました。
演習の詳細は長らく機密扱いとされ、公開後も議論が続きました。
1965年
自衛隊
机上作戦演習
三矢研究
1967年
アメリカ合衆国憲法修正第25条の批准が完了。
1967年2月10日、米国憲法修正第25条の批准が完了しました。
憲法修正第25条は大統領の職務不能時の権限継承を定めた条文です。
1965年に提案され、必要な3分の2以上の議会承認を経て各州での批准が進みました。
1967年2月10日、38番目の州が批准し、正式に発効が完了しました。
この修正により副大統領の昇格手順や大統領不在時の代理権が法的に明確化されました。
後の大統領移行や健康問題時の手続きに重要な基盤を提供しました。
1967年
アメリカ合衆国憲法修正第25条