紀元前660年(神武天皇即位紀元元年1月1日)

初代天皇・神武天皇が即位(『日本書紀』による。2月11日はグレゴリオ暦での日付)。日付は1873年に制定。

『日本書紀』によると初代天皇・神武天皇が即位したとされる日です。明治6年に2月11日と定められ、現在は建国記念の日として祝われています。
紀元前660年1月1日とされるこの日は、『日本書紀』に記された日本建国の始まりを象徴しています。実際の史実かどうかは不明ながら、明治6年(1873年)にグレゴリオ暦の2月11日と定められ、以来『建国記念の日』として国民の祝日に指定されてきました。旧暦の1月1日を新暦に換算した日付であるため、歴史学的には議論もあります。現在では日本の歴史や伝統を振り返る機会として、学校や各地の行事でさまざまな記念行事が行われています。
紀元前660年 神武天皇即位紀元 1月1日 天皇 神武天皇 日本書紀 グレゴリオ暦
55年

ローマ皇帝ネロが義弟ブリタンニクスを暗殺。

ローマ皇帝ネロが義弟ブリタンニクスを毒により暗殺した事件です。当時の権力闘争の一端を示しています。
55年、ローマ皇帝ネロは義弟ブリタンニクスに対して暗殺を指示しました。ブリタンニクスはネロの人気を脅かす可能性があるとみなされ、毒を盛られて死亡したと伝えられています。この事件は若き皇帝ネロの冷酷さと権力維持の手段を象徴し、ローマ帝政期の政争の激しさを示す一例です。後世の史料ではネロの独裁的性格を象徴するエピソードとして取り上げられ、芸術や文学でも度々描かれています。
55年 ネロ ブリタンニクス
建安5年1月9日

曹操打倒のクーデター計画が発覚して捕らえられた、董承ら一派とその三族が処刑。

曹操に反抗する董承らのクーデター計画が露見し、董承一派とその家族が処刑された事件です。三国時代の権力闘争の一幕を示しています。
200年、後漢末期の権力者・曹操に対する暗殺計画が董承らによって企てられました。しかし計画は事前に探知され、董承および関与した一族が逮捕・処刑されました。この一件は建安5年1月9日に行われ、『三族』が滅ぼされたことから強権的な統治手法を象徴します。曹操は以後も勢力を拡大し、三国時代への布石を固めたと言われています。史書では粛清の厳しさが記録され、後世に伝わる政治的恐怖統治の代表例とされています。
200年 建安 曹操 董承 三族
1806年

小ピットの死をうけてウィリアム・グレンヴィルがイギリス首相に就任。

ウィリアム・グレンヴィルがイギリスの首相に就任した出来事です。前任の小ピット没後の政権交代を示します。
1806年、長年首相を務めた小ピットが死去した後、ウィリアム・グレンヴィルが第1代グレンヴィル子爵としてイギリスの首相に就任しました。彼は対フランス戦争の継続と外交政策で知られ、後にグレンヴィル派として政界に影響を与えました。この内閣は戦時下の運営と議会との関係調整に苦慮しつつも、首相権限の在り方を示す重要な転換点となりました。イギリスの政党政治史を考えるうえで欠かせない時期とされています。
1806年 小ピット ウィリアム・グレンヴィル
1812年

マサチューセッツ州知事エルブリッジ・ゲリーが、自分の所属する政党に有利なように選挙区の区割りを変更。いびつな形からゲリマンダーと呼ばれる。

マサチューセッツ州知事エルブリッジ・ゲリーが選挙区を党利的操作で変更し、『ゲリマンダー』という言葉が生まれました。
1812年、マサチューセッツ州知事エルブリッジ・ゲリーは連邦党に有利になるよう州議会に選挙区の区割りを承認させました。地図上の形状がサラマンダー(火トカゲ)に似ていると批判され、『ゲリマンダー』という造語が生まれました。この手法は自身の党勢維持を狙った戦略的操作とみなされ、現在でも米国をはじめ世界各地で議会区割りの不公正の象徴とされています。以後、選挙区の不正操作を指す一般用語として定着しました。
1812年 マサチューセッツ州知事 エルブリッジ・ゲリー ゲリマンダー
1814年

ノルウェーがデンマーク=ノルウェーからの独立を宣言。

ノルウェーがデンマーク=ノルウェー連合からの独立を宣言した日です。北欧史の転換点となりました。
1814年、ナポレオン戦争終結後のウィーン会議の議論を背景に、ノルウェーはデンマークからの自治を求めて憲法を制定し独立を宣言しました。しかし同年のスウェーデンとの戦争の末に連合王国の一員となる協定を結ぶことになります。独立宣言と憲法制定はノルウェーの国家意識を高め、後の完全独立への道筋を開く重要な出来事です。現在、5月17日の憲法記念日とともに、この出来事は国民の誇りとされています。
1814年 ノルウェー デンマーク=ノルウェー
1855年

テオドロス2世がエチオピア皇帝に即位。

テオドロス2世がエチオピア皇帝に即位した日です。現代エチオピア王朝の礎を築きました。
1855年、テオドロス2世(テオドロス・リュイ・ゴンダリエ)がエチオピア皇帝に即位しました。彼は内乱で荒廃した国を統一し、行政制度や軍制改革など近代化政策を推進しました。外国勢力との交渉においても巧みな外交手腕を発揮し、エチオピアの主権維持に努めました。テオドロス2世の治世は、近代エチオピアの基礎を築いた時期と評価されています。
1855年 テオドロス2世 エチオピア皇帝
1873年

スペイン国王アマデオ1世が退位し、スペイン第一共和政が成立。

スペイン国王アマデオ1世の退位により、スペイン第一共和政が樹立された歴史的転換点です。
1873年2月11日、イタリア王国出身のアマデオ1世が政治混乱や不評に直面し退位を宣言しました。 彼の退位に伴い、ブルボン家復帰を拒否する議会が第一共和政を樹立。 この共和政は短命だったものの、スペイン王政への反省と共和主義の高揚を象徴します。 内部対立や社会不安が続き、1874年にはクーデターで共和政は終焉を迎えました。 この出来事は19世紀スペインの政体変動と共和主義闘争の一幕となりました。
1873年 スペイン アマデオ1世 スペイン第一共和政
1875年

大阪会議が開かれる。

明治政府の有力政治家が集い、国政の基本方針を協議した重要会議です。
1875年2月11日、大阪で西郷隆盛や大久保利通らが参加し政府要人会議が開かれました。 この会議では征韓論・徴兵令など新政府の方針について意見交換が行われました。 特に薩長両藩の対立を調整し、国政の統一的判断を得る場となりました。 会議を通じて政府は中央集権化と統一的行政運営の必要性を確認。 以降の明治国家の基盤形成に大きく寄与した歴史的会合です。
1875年 大阪会議
1889年

大日本帝国憲法・旧皇室典範などが公布。

日本の近代憲法である大日本帝国憲法と皇室典範が公布され、立憲君主制の枠組みが確立しました。
1889年2月11日、明治天皇の詔書により大日本帝国憲法と旧皇室典範が同時に公布されました。 憲法は立憲君主制を採用し、三権分立や国会設置など西欧モデルを参考にした条文を定めます。 皇室典範は皇位継承や皇族の礼遇・身分を規定し、皇室制度の法的基盤を整備しました。 公布式典は東京の宮殿で行われ、欧米列強に対する近代国家としての自信を示す場ともなりました。 これらの法典は大正12年まで約38年間、日本の法秩序の根幹を成しました。
1889年 大日本帝国憲法 旧皇室典範
1889年

伊勢神宮で不敬な態度をとったと報じられた文部大臣森有礼が、国粋主義者の士族・西野文太郎に刺される。翌日死亡。

文部大臣森有礼が伊勢神宮参拝時に襲撃され、近代日本における国粋主義運動の衝撃を与えました。
1889年2月11日、文部大臣森有礼が伊勢神宮で不敬な振る舞いを報じられたとして士族の西野文太郎に襲撃されました。 森は即座に重傷を負い、翌日に死亡。この事件は言論や教育内容を巡る激しいナショナリズムの表れとされます。 西野は國粋主義者として天皇神格化思想を掲げ、国家体制への忠誠を重視していました。 事件は政府への批判と過激思想の危険性を浮き彫りにし、新聞や世論で大きな論争を呼びました。 教育制度の自由と国家主義の対立を象徴する出来事として、後の教育政策にも影響を与えました。
伊勢神宮 森有礼 西野文太郎
1890年

金鵄勲章制定。

日本陸海軍の武功を顕彰する金鵄勲章が制定され、帝国の軍事栄誉制度が確立しました。
1890年2月11日、勲章制度の一環として金鵄勲章が制定されました。 金鵄は日本神話のヤタガラスを象徴し、軍功を称える意義が込められています。 この勲章は日清戦争以降の戦功者へ授与され、軍人の名誉と忠誠心を高める役割を果たしました。 日露戦争や第一次世界大戦などで多くの軍人が受章し、軍事栄誉の象徴となります。 1947年の勲章制度改正まで続き、現在は廃止されていますが、歴史的価値は高いとされます。
1890年 金鵄勲章