1862年

大野佐吉が浅草瓦町(現在の台東区浅草橋)で鮒佐を創業。醤油で煮る現在の佃煮の形を創り上げる。

大野佐吉が浅草瓦町で『鮒佐』を創業し、醤油で煮る現在の佃煮の形を確立しました。
1862年2月15日、江戸(現在の東京都台東区浅草橋)にて大野佐吉が『鮒佐』を創業し、魚介類を醤油で煮詰める佃煮の製法を完成させました。 従来の味噌煮とは異なり、醤油の風味と保存性を両立させた調理法は庶民の間で瞬く間に広まりました。 佃煮の名は江戸前の漁村・佃に由来するとされ、佐吉はこれを商品化することで成功を収めました。 鮒佐は品質管理や流通網の整備にも注力し、後の日本の食文化に大きな影響を与えました。 その後、佃煮は全国に普及し、家庭料理や贈答品として定着しました。
1862年 大野佐吉 台東区 浅草橋 鮒佐 醤油 佃煮
1881年

料亭芝紅葉館が開館する。

東京芝に高級料亭『芝紅葉館』が開館しました。
1881年2月15日、東京芝にて料亭『芝紅葉館』が開業しました。 芝紅葉館は洋風文化と日本料理を融合させた内装と料理で評判を呼びました。 政府高官や財界人、文人たちが集う社交場として重用され、明治期の料亭文化を象徴しました。 木造建築にステンドグラスやシャンデリアを取り入れた和洋折衷の設えが話題となりました。 その後、料亭文化のモデルケースとして全国に影響を与えました。
1881年 芝紅葉館
1900年

田中正造が、足尾鉱毒問題解決のために憲政本党を離党。

1900年、田中正造が足尾鉱毒問題の解決を求めて憲政本党を離党し、政府の対応を問い続けた出来事。
足尾鉱毒問題の解決を求める国会議員として知られた田中正造は、1900年2月15日に憲政本党を離党した。 彼は鉱山開発による下流域住民への深刻な鉱毒被害に対し政府の不作為を批判し続けていた。 離党後は衆議院で政府を糾弾する演説や請願運動に専念し、被害救済に取り組んだ。 田中の行動は日本における環境保護運動の先駆とされ、後の公害問題解決のモデルとなった。 鉱毒被害の実態究明と被害者補償を強く訴えた彼の姿勢は、国民の注目を集めた。
1900年 田中正造 足尾鉱毒問題 憲政本党
1938年

東京都下のカフェー、バー、喫茶店などで一斉手入れ。約2000人の不良学生が検挙される。

1938年、東京都下のカフェーやバーなどで一斉手入れが行われ、約2000人の学生が検挙された。
1938年2月15日、東京府警察は都下のカフェー、バー、喫茶店などを対象に一斉手入れを実施した。 当時、政府は国民の風紀維持と軍事動員のために若者の統制を強化していた。 警察は「不良学生」と称し、約2000人の学生を検挙し取り調べを行った。 検挙された多くは逮捕後に思想教育や軍事訓練に動員されるなど社会統制の一環とされた。 この事件は戦時下の国家統制と若者文化弾圧の象徴的事例となった。
1938年 カフェー バー 喫茶店