延喜元年1月25日
菅原道真が大宰府へ向けて出発する。
菅原道真が藤原氏の讒言により大宰府へと左遷されるため京を離れる歴史的瞬間です。
菅原道真(845-903)は平安時代を代表する学者・政治家として知られています。901年、政敵の讒言により大宰権帥に左遷され、大宰府(現福岡県太宰府市)へ向けて京を離れました。道真の大宰府への旅は過酷で、道中の様子は後世に多く語り継がれています。この左遷事件は後に『天満天神』として道真を祀る信仰と江戸時代の学問崇拝を生む契機となりました。大宰府では病に倒れ903年に没しましたが、死後に怨霊伝説が生まれ、学問の神として崇敬されました。
901年
延喜
1月25日
菅原道真
大宰府
寛文5年1月1日
落雷により大坂城の天守閣が炎上。
寛文5年、雷雨の中で落雷が大坂城天守閣を直撃し、築城史上大きな被害をもたらした出来事です。
大坂城は豊臣秀吉の築城以来、関西を象徴する城郭として知られていました。1615年の大坂夏の陣で一度焼失した天守閣は、徳川幕府の命で1629年までに再建されました。しかし寛文5年の雷雨で落雷を受け、再建された天守閣は再び炎上し焼失しました。この火災は自然災害による城郭破壊の一例として歴史に残ります。天守閣の復興は果たされず、現存する大坂城の天守閣は1931年に復興されたものです。
1665年
寛文
1月1日
大坂城
1742年
ウィルミントン伯スペンサー・コンプトンがイギリスの首相に就任。
1742年、スペンサー・コンプトンがウィルミントン伯としてイギリスの首相相当職に就任しました。
スペンサー・コンプトン(1673-1743)はウォリックシャー出身の貴族で、庶民院議員や枢密院顧問などを歴任しました。1742年2月16日、First Lord of the Treasury(実質的な首相)に就任し、ジョージ2世の下で短期間ながら政権を担当しました。在任期間は約11ヶ月と短期間でしたが、穏健な指導力で知られていました。彼の政権は主に税制改革や財政再建を図ることに注力しましたが、翌年には辞任を余儀なくされました。コンプトンの首相就任は議会政治の成熟過程における一幕として評価されています。
1742年
ウィルミントン伯スペンサー・コンプトン
イギリスの首相
1791年
フランス国民議会が独占排他的な商工業組合(ギルド)の廃止を宣言。
フランス国民議会がギルドを廃止し、商工業の自由化を宣言しました。
1791年2月16日、フランス革命期の国民議会は、封建的・独占的な商工業組合(ギルド)の廃止を決議しました。この改革により都市部の職人や商人は身分による制約を離れ、自由に営業活動が可能となりました。ギルド廃止は市民階級の経済的自由を拡大し、産業の活性化に寄与しましたが、一方で伝統的職人組織の崩壊を招く側面もありました。これはフランス革命の自由・平等・博愛を経済面で体現する重要な一歩とされています。後に同様の制度改革は他国にも影響を与え、産業革命期の市場原理主義的な経済運営の先駆けとなりました。
1791年
フランス
ギルド
1804年
第一次バーバリ戦争: アメリカ海軍のスティーブン・ディケーターがトリポリ軍を奇襲し、拿捕されたフィラデルフィアを破壊。
第一次バーバリ戦争でアメリカ海軍が拿捕された艦船『フィラデルフィア』を破壊しました。
第一次バーバリ戦争は北アフリカのバーバリ海賊に対抗するため1801年に始まりました。1804年2月16日、アメリカ海軍のスティーブン・ディケーター少尉率いる突撃隊がトリポリ港に入り込み、拿捕されていたフリゲート艦USSフィラデルフィアを爆破・自沈させました。この作戦は敵の補給線を断つ戦術的勝利とされ、アメリカ海軍の戦術的能力と決意を示した画期的な出来事です。フィラデルフィア破壊は海軍史における大胆な奇襲作戦として高く評価されています。当時の海軍記録にはディケーターの勇敢な行動が詳細に記されており、アメリカ建国以来の名高い作戦の一つとなっています。
1804年
第一次バーバリ戦争
アメリカ海軍
スティーブン・ディケーター
拿捕
1883年
東京気象台がドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッピングの指導の下、日本初の天気図を作成。
東京気象台がエリヴィン・クニッピングの指導で日本初の天気図を作成しました。
1883年2月16日、東京気象台(現気象庁東京管区気象台)はドイツ人気象学者エリヴィン・クニッピング博士の助言を受け、日本で初めて全国を網羅した天気図を作製しました。従来の観測データをもとに気圧配置や前線などが図示され、天候変化の可視化が可能になりました。欧米ではすでに天気図が活用されていましたが、日本でも近代的な気象予報技術の導入が本格化しました。この成果は洪水や暴風雨への早期警戒、農業生産性向上など社会的影響も大きく、気象学の発展に大きく貢献しました。天気図作製は日本の科学技術近代化の象徴的出来事といえます。
1883年
東京気象台
エリヴィン・クニッピング
天気図
1900年
北海道拓殖銀行が特殊銀行として設立。
北海道拓殖銀行が殖産興業を支援するため特殊銀行として設立されました。
1900年2月16日、北海道拓殖銀行は北海道開拓庁の出資を受けて特殊銀行として設立され、開拓資金の供給を担いました。主に農業や漁業、鉱山開発などのプロジェクトに融資し、北海道の経済基盤整備を支えました。その設立は明治期の殖産興業政策の一環であり、地域振興と産業育成に大きく貢献しました。戦後も銀行業務を続ける中で地元金融機関として重要な役割を果たしましたが、1990年代には経営不振により再編が進みました。
1900年
北海道拓殖銀行
特殊銀行
1918年
ロシア帝国領となっていたリトアニアで、リトアニア協議会が独立を宣言。リトアニア王国が成立。
リトアニア協議会がロシア帝国からの独立を宣言し、リトアニア王国を成立させました。
1918年2月16日、第一次世界大戦の混乱の中、リトアニア協議会(Taryba)はロシア帝国支配からの独立を宣言しました。リトアニア王国としての新政府は、ドイツ帝国の保護下での王制を模索しましたが、選出された王位候補ウラフ王子(ヴィルヘルム・フォン・ウラーフ)が実際に統治することはありませんでした。その後共和国制へ移行し、国家建設と領土確定の過程が続きました。独立宣言はバルト三国の民族自決運動の象徴的出来事として評価されています。この独立宣言はロシア帝国崩壊の余波を受けたものであり、バルト三国の中でも最初の国家再興となりました。
1918年
ロシア帝国
リトアニア
リトアニア協議会
英語版
リトアニア王国
1923年
ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を開ける。
考古学者ハワード・カーターがツタンカーメン王の墓を発見し、扉を開けました。
1923年2月16日、エジプト学者ハワード・カーターはエジプト・ルクソール西岸の王家の谷でツタンカーメン王(紀元前1332-1323年)のほぼ無傷の墓を初めて開扉しました。発掘は資金提供者であるカーナヴォン男爵の支援を受けて行われ、その緻密な調査手法は後続の発掘に大きな影響を与えました。墓室には豪華な副葬品が数多く残されており、古代エジプト文明の豊かな文化と技術力を示す重要な発見となりました。この発見は世界的なエジプトブームを引き起こし、多くの美術品や財宝が英国のコーンウォール公家に持ち帰られることになりました。考古学的な手法の発展にも寄与し、後世の発掘調査基準を大きく変えました。
1923年
ハワード・カーター
ツタンカーメン
1936年
スペイン総選挙で、人民戦線派が圧勝し、社会主義連合政権が成立。
スペイン総選挙で人民戦線が勝利し、社会主義連合政権が成立しました。
1936年2月16日、スペイン共和国の総選挙で人民戦線(Frente Popular)が圧勝し、左派勢力による連立政権が発足しました。社会主義政党や共産党、共和派などが結集したこの政権は、軍の一部や右派勢力の反発を招き、同年7月にスペイン内戦が勃発する要因となりました。人民戦線政権は労働者の権利拡大や宗教勢力の抑制を目指し、様々な改革を推進しようとしましたが、政治的対立により実行が困難でした。この選挙結果はヨーロッパ全体の政治状況にも大きな影響を及ぼし、国際的な注目を集めました。内戦勃発前夜の緊迫した政治状況を象徴する出来事として重要視されています。
1936年
スペイン
人民戦線
1937年
ウォーレス・カロザースがナイロンの特許を取得。
アメリカの化学者ウォーレス・カロザースが世界初の合成繊維ナイロンの特許を取得した。
1937年2月16日、アメリカの化学者ウォーレス・カロザースがデュポン社で開発した初の合成繊維「ナイロン」の特許を取得しました。
ナイロンはポリアミド樹脂を原料とし、軽量で強度や弾性に優れる特性を持っています。
この発明により、ストッキングやパラシュートなどの素材が革新され、繊維業界に大きな変革をもたらしました。
また、第二次世界大戦中には軍需物資としても重要な役割を果たし、合成繊維時代の幕開けとなりました。
ナイロンの成功は後の高機能繊維開発にも影響を与え、現代の化学工業を支える基盤となりました。
1937年
ウォーレス・カロザース
ナイロン
1940年
第二次世界大戦: アルトマルク号事件が発生。
ノルウェー領内でイギリス海軍がドイツ補給船アルトマルク号を拿捕する事件が発生した。
1940年2月16日、第二次世界大戦中のノルウェー領内のフィヨルドで、イギリス海軍がドイツ補給船アルトマルク号を拿捕しました。
アルトマルク号には捕虜となったイギリス海軍兵士たちが収容されており、イギリス側は彼らの救出作戦を実施しました。
この事件は中立国ノルウェーの領海を侵犯する形で行われたため、国際法上の議論を巻き起こしました。
イギリス側の強硬な行動はドイツ軍のノルウェー侵攻を促進する要因ともなり、戦局に影響を与えました。
戦時下の国際的な海戦規範や中立主権の問題が浮き彫りになった出来事です。
1940年
第二次世界大戦
アルトマルク号事件