延喜元年1月25日

菅原道真が大宰府へ向けて出発する。

菅原道真が藤原氏の讒言により大宰府へと左遷されるため京を離れる歴史的瞬間です。
菅原道真(845-903)は平安時代を代表する学者・政治家として知られています。901年、政敵の讒言により大宰権帥に左遷され、大宰府(現福岡県太宰府市)へ向けて京を離れました。道真の大宰府への旅は過酷で、道中の様子は後世に多く語り継がれています。この左遷事件は後に『天満天神』として道真を祀る信仰と江戸時代の学問崇拝を生む契機となりました。大宰府では病に倒れ903年に没しましたが、死後に怨霊伝説が生まれ、学問の神として崇敬されました。
901年 延喜 1月25日 菅原道真 大宰府
1742年

ウィルミントン伯スペンサー・コンプトンがイギリスの首相に就任。

1742年、スペンサー・コンプトンがウィルミントン伯としてイギリスの首相相当職に就任しました。
スペンサー・コンプトン(1673-1743)はウォリックシャー出身の貴族で、庶民院議員や枢密院顧問などを歴任しました。1742年2月16日、First Lord of the Treasury(実質的な首相)に就任し、ジョージ2世の下で短期間ながら政権を担当しました。在任期間は約11ヶ月と短期間でしたが、穏健な指導力で知られていました。彼の政権は主に税制改革や財政再建を図ることに注力しましたが、翌年には辞任を余儀なくされました。コンプトンの首相就任は議会政治の成熟過程における一幕として評価されています。
1742年 ウィルミントン伯スペンサー・コンプトン イギリスの首相
1791年

フランス国民議会が独占排他的な商工業組合(ギルド)の廃止を宣言。

フランス国民議会がギルドを廃止し、商工業の自由化を宣言しました。
1791年2月16日、フランス革命期の国民議会は、封建的・独占的な商工業組合(ギルド)の廃止を決議しました。この改革により都市部の職人や商人は身分による制約を離れ、自由に営業活動が可能となりました。ギルド廃止は市民階級の経済的自由を拡大し、産業の活性化に寄与しましたが、一方で伝統的職人組織の崩壊を招く側面もありました。これはフランス革命の自由・平等・博愛を経済面で体現する重要な一歩とされています。後に同様の制度改革は他国にも影響を与え、産業革命期の市場原理主義的な経済運営の先駆けとなりました。
1791年 フランス ギルド
1918年

ロシア帝国領となっていたリトアニアで、リトアニア協議会が独立を宣言。リトアニア王国が成立。

リトアニア協議会がロシア帝国からの独立を宣言し、リトアニア王国を成立させました。
1918年2月16日、第一次世界大戦の混乱の中、リトアニア協議会(Taryba)はロシア帝国支配からの独立を宣言しました。リトアニア王国としての新政府は、ドイツ帝国の保護下での王制を模索しましたが、選出された王位候補ウラフ王子(ヴィルヘルム・フォン・ウラーフ)が実際に統治することはありませんでした。その後共和国制へ移行し、国家建設と領土確定の過程が続きました。独立宣言はバルト三国の民族自決運動の象徴的出来事として評価されています。この独立宣言はロシア帝国崩壊の余波を受けたものであり、バルト三国の中でも最初の国家再興となりました。
1918年 ロシア帝国 リトアニア リトアニア協議会 英語版 リトアニア王国
1936年

スペイン総選挙で、人民戦線派が圧勝し、社会主義連合政権が成立。

スペイン総選挙で人民戦線が勝利し、社会主義連合政権が成立しました。
1936年2月16日、スペイン共和国の総選挙で人民戦線(Frente Popular)が圧勝し、左派勢力による連立政権が発足しました。社会主義政党や共産党、共和派などが結集したこの政権は、軍の一部や右派勢力の反発を招き、同年7月にスペイン内戦が勃発する要因となりました。人民戦線政権は労働者の権利拡大や宗教勢力の抑制を目指し、様々な改革を推進しようとしましたが、政治的対立により実行が困難でした。この選挙結果はヨーロッパ全体の政治状況にも大きな影響を及ぼし、国際的な注目を集めました。内戦勃発前夜の緊迫した政治状況を象徴する出来事として重要視されています。
1936年 スペイン 人民戦線
1944年

アルゼンチンでフアン・ペロン大佐がクーデター。

アルゼンチンでフアン・ペロン大佐らによるクーデターが発生した。
1944年2月16日、アルゼンチン軍内の若手将校を中心としたクーデターが起き、フアン・ペロン大佐が中心的役割を果たしました。 当時のラモン・カスティーリョ政権に対して軍部は不満を抱いており、ペロンらは政権交代を図りました。 クーデター後、ペロンは労働省や労働総局の要職に就き、労働者階級への支持基盤を築きました。 その後のペロン主義運動の台頭につながり、アルゼンチン政治に大きな影響を与えました。 ペロンは後に大統領に就任し、ポピュリズム的施策で国民的支持を拡大しました。
1944年 アルゼンチン フアン・ペロン クーデター
1949年

第3次吉田茂内閣が発足。

第3次吉田茂内閣が発足し、戦後復興期の政治を主導した。
1949年2月16日、第3次吉田茂内閣が発足しました。 吉田茂首相はアメリカとの関係強化を進める「吉田ドクトリン」を推進し、経済復興を最優先課題としました。 内閣は朝鮮戦争特需による経済成長やサンフランシスコ平和条約交渉に取り組みました。 祖国復興期の統治体制を安定化させるとともに、国際社会への復帰を図る政策を展開しました。 この内閣は1952年まで続き、戦後日本の基盤を築いた重要な政権とされています。
1949年 第3次吉田茂内閣
1953年

インドのジャワハルラール・ネルー首相が連邦議会で、米ソ二大陣営のどちらにも属さない「第三世界」の結集を訴える。

ネルー首相が第三世界の連帯を呼びかけ、非同盟運動の理念を提示した。
1953年2月16日、インドのジャワハルラール・ネルー首相が連邦議会で演説し、米ソ両大国に属さない「第三世界」の結集を訴えました。 ネルーは新興独立国同士の協力を呼びかけ、植民地主義からの解放と平和共存を目指す姿勢を示しました。 この演説は後の非同盟運動の思想的基盤となり、1955年のバンドン会議へとつながります。 ネルーの提唱はアジア・アフリカ諸国の連帯強化に寄与し、冷戦構造への対抗軸を模索する動きを促しました。 国際政治における国際連合の役割強化や中立外交の重要性を再認識させる契機となりました。
1953年 インド ジャワハルラール・ネルー 第三世界
1959年

キューバ首相に革命軍のカストロが就任。

1959年、キューバ革命の指導者フィデル・カストロが首相に就任し、新政権の体制が本格的に始動しました。
1959年2月16日、フィデル・カストロがキューバ共和国の首相に正式に就任した。 革命軍の勝利により成立した革命政府の中枢にカストロが座ることで、社会主義路線への本格的な転換が始まった。 カストロは農地改革や教育、医療の無償化などを掲げ、急進的な政策を次々と実施した。 この動きはアメリカとの対立を深め、1960年代以降の冷戦構造の中でキューバ危機へと繋がる一因となった。 首相就任はカストロ体制の確立を示す重要な出来事であり、ラテンアメリカの政治に大きな影響を与えました。
1959年 キューバ カストロ
1976年

衆議院予算委員会で、ロッキード事件の証人喚問を開始。証人喚問の場に立った国際興業創業者で同社社主(当時)の小佐野賢治が発した「記憶にございません」が流行語に。

衆議院予算委員会でロッキード事件の証人喚問が開始され、小佐野賢治の『記憶にございません』が流行語となりました。
1976年2月16日、ロッキード事件に関する証人喚問が衆議院予算委員会で始まりました。 国際興業創業者の小佐野賢治が証言席に立ち、疑惑の払拭を図ろうとしました。 質問を受けた小佐野は「記憶にございません」と繰り返し答え、その無罪主張を強調しました。 このフレーズはマスコミや日常会話で大きく取り上げられ、世相を象徴する流行語に発展しました。 ロッキード事件は日本の政治スキャンダル史上でも重大な位置を占め、政界に大きな影響を与えました。
1976年 衆議院 予算委員会 ロッキード事件 証人喚問 国際興業 小佐野賢治 流行語
1978年

北京で日中長期貿易取り決めに調印。

北京で日中長期貿易取り決めに調印し、両国の経済関係強化に道を開きました。
1978年2月16日、中華人民共和国北京にて日中両政府が長期貿易協定に調印しました。 この協定では中国側からの輸出枠や価格交渉の仕組み、決済通貨などの詳細が規定されました。 1972年の国交正常化以来、経済協力の深化を目指す第一歩となる重要な合意でした。 日本企業は中国市場への安定的な製品供給ルートを確保し、進出を加速させました。 本協定は以後の日中間の貿易取引拡大と経済パートナーシップ強化に大きく貢献しました。
1978年
1996年

薬害エイズ事件で菅直人厚生大臣が謝罪会見。

1996年2月16日、当時の厚生大臣・菅直人氏が薬害エイズ事件について国会内で謝罪会見を開き、再発防止策を表明しました。
薬害エイズ事件は1980年代後半、血液製剤の不適切な管理により多くの患者がHIVに感染した社会問題である。 1996年2月16日、菅直人厚生大臣は国会内で被害者や遺族に対し政府を代表して謝罪の言葉を述べた。 会見では被害実態の再調査や補償制度の見直し、血液製剤の安全性向上策が具体的に示された。 この謝罪会見は政府の責任を明確化するとともに、薬害問題への国民的関心を高める転機となった。 会見後、厚生省(現厚生労働省)は監視体制を強化し、血液製剤の品質管理基準を厳格化した。
1996年 薬害エイズ事件 菅直人 厚生大臣