1226年

教皇派と皇帝派の戦い:ベネヴェントの戦い。南イタリアのベネヴェント近郊で、ホーエンシュタウフェン家とカペー家が戦い、カペー家が勝利。

南イタリアのベネヴェント近郊で教皇派と皇帝派が衝突した戦い。
1226年2月26日、南イタリアのベネヴェント付近で教皇派とホーエンシュタウフェン家率いる皇帝派が衝突した。 この戦いは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と教皇の対立の一環であり、領土支配権を巡る争いが激化した。 ベネヴェントの戦場でカペー家と呼ばれる教皇側の軍勢が勝利を収め、皇帝派に大打撃を与えた。 この結果、教皇は南イタリアにおける影響力を強化し、フリードリヒ2世の勢力を後退させた。 中世ヨーロッパの教皇権と皇帝権力の対立構造を象徴する重要な一戦である。
1226年 教皇派と皇帝派の戦い ベネヴェントの戦い イタリア ベネヴェント ホーエンシュタウフェン家 カペー家
天文19年2月10日

豊後国大友氏の後継者争いで、大友義鎮支持派の家臣が当主大友義鑑の居館を襲撃。後継者・塩市丸らが殺され、義鑑も2日後に死亡する(二階崩れの変)。

豊後国大友氏の後継者争いで居館が襲撃された事件(二階崩れの変)。
1550年2月26日(天文19年2月10日)、大友義鎮(後の大友宗麟)支持派の家臣が当主大友義鑑の居館を襲撃した。 この襲撃で後継者と目された塩市丸らが殺害され、義鑑も重傷を負い数日後に死亡した。 事件は二階崩れの変と呼ばれ、豊後国の大友氏内部抗争の激化を象徴する出来事となった。 義鎮の勢力が一気に優勢となり、領国経営の改革とキリスト教布教が進められる契機となった。 戦国時代の大名家内部で巻き起こった権力闘争の一面を示している。
1550年 天文 2月10日 豊後国 大友氏 大友義鎮 大友義鑑 塩市丸 二階崩れの変
1815年

ナポレオン・ボナパルトがエルバ島を脱出。

ナポレオン・ボナパルトがエルバ島を脱出し、フランスへ帰還を開始した日。
1815年2月26日、ナポレオン・ボナパルトが約10カ月の流刑先であったエルバ島を脱出した。 脱出後、地中海沿岸を北上して南フランスに上陸し、再びフランス本土での政権掌握を目指した。 この行動は「百日天下」と呼ばれる彼の復権劇の始まりとなり、ヨーロッパ中に衝撃を与えた。 ルイ18世の王政復古政権を揺るがし、多くの支持者を集めながらパリへ進軍した。 最終的にワーテルローの戦いで敗北するまで、ヨーロッパ情勢を大きく動かした。
1815年 ナポレオン・ボナパルト エルバ島
1819年

シモン・ボリバルが大コロンビアの大統領に選任され、ヌエバ・グラナダ解放作戦(コロンビア独立戦争)が始まる。

シモン・ボリバルが大コロンビア共和国の大統領に選出され、独立戦争が本格化した日。
1819年2月26日、南米独立運動の指導者シモン・ボリバルが大コロンビア(現在のコロンビア・ベネズエラ・エクアドルなどを含む連邦)の初代大統領に選ばれた。 同日にヌエバ・グラナダ解放作戦が正式に開始され、スペイン帝国からの独立を目指す本格的な戦いが始まった。 ボリバルはカリブ海沿岸から山岳地帯へと進軍し、戦略的かつ機動的な戦術でスペイン軍を翻弄した。 解放作戦は1821年のボヤカの戦いで大勝利を収め、ヌエバ・グラナダ独立の道を開いた。 この一連の戦いは南米独立戦争の転機として評価されている。
1819年 シモン・ボリバル 大コロンビア 大統領 ヌエバ・グラナダ コロンビア 独立戦争
1871年

フランス・ドイツ間で講和の仮条約が締結され、普仏戦争が終結。

普仏戦争の終結を決定づける仮条約が締結された日。フランスとドイツ(プロイセンを中心とする諸邦)の間で停戦が成立した。
1871年2月26日、フランス帝国とプロイセン王国を中心とするドイツ諸邦との間で講和の仮条約が締結されました。 この仮条約により、普仏戦争(1870年~1871年)の実質的な終結が宣言され、両国は正式講和条約(フランクフルト条約)交渉の準備を開始しました。 講和後、プロイセンのオットー・フォン・ビスマルク首相は北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦の統合を推進し、1871年3月にはドイツ帝国が成立。 この戦争でフランスは大規模な賠償金支払いを課され、アルザス・ロレーヌ地方を失うなど国際秩序が大きく変動しました。 当日は講和会議の場で緊張感が高まりましたが、停戦の兆しとして歴史的意義の大きい日となりました。
1871年 フランス ドイツ 仮条約 ドイツ語版 フランス語版 普仏戦争
1936年

二・二六事件。日本陸軍の青年将校らがクーデター。内大臣齋藤實、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎らが殺害される。

日本陸軍の青年将校らによるクーデター未遂事件「二・二六事件」が発生し、政府首脳が暗殺された。
1936年2月26日、日本の陸軍青年将校約1,500名が東京でクーデターを起こし、政府転覆を図りました。 襲撃により内大臣斎藤實、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎らが殺害され、皇道派将校の不満が噴出しました。 彼らは軍部の政治介入強化と国家社会主義的改革を主張し、総理大臣斎藤内閣の打倒を目指しました。 鎮圧には約20時間を要し、軍部の上層部は反乱鎮圧後に皇道派将校を厳罰に処しました。 事件は昭和維新運動の一環とされ、日本の政党政治および官僚機構への不信を深めた重大事件です。
1936年 二・二六事件 齋藤實 高橋是清 渡辺錠太郎
1945年

伊号第三百七十潜水艦が戦没。

日本海軍の潜水艦伊号第三百七十潜水艦が戦没し、乗員が犠牲となった。
1945年2月26日、日本海軍の伊号第三百七十潜水艦(I-370)が太平洋戦域で戦没しました。 I-370は主に輸送任務や潜水艦戦に従事し、連合国側の対潜戦闘により撃沈されたとされています。 艦長以下乗員多数が犠牲となり、末期の海軍潜水艦戦の過酷さを象徴する事例となりました。 当時、日本海軍は物資輸送路維持のために潜水艦を多用していましたが、連合軍の対潜技術向上で損耗が激化していました。 この戦没は日本の戦況が一層悪化していた状況を示す一件として記録されています。
1945年 伊号第三百七十潜水艦
1966年

ゴダイの虐殺。

1966年にゴダイで発生した虐殺事件です。詳細は限られているものの、その残虐性と被害の大きさが後世に語り継がれています。
1966年 ゴダイの虐殺
1973年

ベトナム戦争:パリでベトナム和平保障国際会議開催。

パリでベトナム和平保障国際会議が開催されました。
1973年2月26日、パリでベトナム和平保障国際会議が開催されました。米英ソ中や南北ベトナムの代表が参加し、停戦後の保障や和平実現に向けた討議が行われました。会議は1973年1月のパリ和平協定を受けて開催され、交戦国間の信頼構築を目指しました。特に捕虜交換や政治的安定化措置が議題となり、アジアにおける冷戦後の地域情勢に影響を与えました。
1973年 ベトナム戦争
1991年

湾岸戦争:サッダーム・フセインがラジオでイラク軍をクウェートから撤退させると表明。

サダム・フセインがイラク軍のクウェート撤退を表明しました。
1991年2月26日、湾岸戦争でサダム・フセインがラジオ演説でイラク軍のクウェート撤退を表明しました。これにより、多国籍軍による掃討作戦が終了し、クウェートの主権回復が実現しました。撤退表明は国連安保理決議に基づく圧力と戦闘行動の成果を反映するものでした。戦後、湾岸地域の再建や国際的安全保障体制の再構築が課題として浮上しました。この出来事は中東政治における大規模軍事介入と国際協調のあり方を問う契機となりました。
1991年 湾岸戦争 サッダーム・フセイン イラク軍 クウェート
1993年

ニューヨーク世界貿易センタービル爆破事件。

ニューヨーク世界貿易センタービルで爆破事件が起き、多数の負傷者が出ました。
1993年2月26日、ニューヨークの世界貿易センタービル北塔の地下駐車場で爆破事件が発生しました。トラックに仕掛けられた爆弾が爆発し、6名が死亡、約1000名が負傷しました。事件は国際テロの前兆とされ、捜査の結果イマド・マナスールらが関与していることが判明しました。治安対策の強化や建物の防爆構造見直しが進められ、都市インフラの安全性向上が図られました。この事件は後の2001年同時多発テロへの警鐘ともなり、米国内外でテロ対策の重要性が再認識されました。
1993年 ニューヨーク世界貿易センタービル爆破事件
2001年

ターリバーンがバーミヤンの大仏を破壊すると宣言。同年3月に破壊。

2001年、ターリバーンがバーミヤン大仏の破壊を宣言し、同年3月に実行した。
バーミヤン大仏は6世紀に造立された巨大石仏でユネスコ世界遺産に登録されていた。2001年2月26日、アフガニスタンのターリバーン政権はこれを「異端的偶像崇拝」として破壊すると宣言し、3月に爆破を行った。破壊は国際的な非難を浴び、文化財保護の必要性が強く訴えられる契機となった。この事件は文化遺産保護の国際条約強化へとつながった。現在は遺跡保存と復元プロジェクトが進められている。
2001年 ターリバーン バーミヤンの大仏