推古天皇36年3月2日
日本で記録(日本書紀)に残る最古の日食。
日本書紀に記された日本最古の天文現象の記録。天文観測や暦の研究に重要な資料です。
628年、推古天皇の時代に観測された日食は『日本書紀』において最古の天文現象の記録とされています。当時の暦法は中国から伝わったものであり、日食の観測は天体観測技術の発展に貢献しました。宮廷では天文現象を吉凶の判断材料とし、政治や祭祀に影響を与えました。この記録は日本の早期歴史資料として学術的価値が高く、後世の天文学研究の基礎となりました。天文観測の文化的意義を知るうえで欠かせない出来事です。
628年
推古天皇
3月2日
日本書紀
日食
弘仁14年2月26日
嵯峨天皇の勅により比叡山寺の寺号を延暦寺に改める。
嵯峨天皇の勅により比叡山の寺号が正式に『延暦寺』と改称され、天台宗の総本山としての地位が確立しました。
823年、嵯峨天皇は比叡山寺の寺号を『延暦寺』に改める勅令を発しました。比叡山寺は伝教大師最澄が開創した天台宗の根本道場で、改称により皇室の保護を受ける正式な寺院として認められました。延暦寺は以後、天台宗の総本山として僧侶の教育や経典の研究を担い、日本仏教史に大きな影響を与えました。平安時代から鎌倉時代にかけて政治的・文化的な拠点となり、多くの寺院や修行道場を指導しました。現在まで続く延暦寺の名称と伝統は、この勅令によって確立されました。
823年
弘仁
2月26日
嵯峨天皇
延暦寺
879年
ルイ3世が西フランク王に即位。
ルイ3世が西フランク王に即位し、弟カルロマーニョとの共同統治を開始しました。
879年、カロリング朝の血筋を引くルイ3世(カール3世)が西フランク王に即位しました。彼は弟カルロマーニョと共同して王国を支配し、ヴァイキングの襲来に対抗して防衛策を講じました。ルイ3世の治世は短命であり、880年に戦闘中の怪我がもとで急逝しました。即位期間中の功績は限られるものの、共同統治の試みや国防強化の動きが評価されています。後継には弟が単独で王位を継承しました。
879年
ルイ3世
西フランク
寛元4年3月23日
鎌倉幕府執権・北条経時が重病のため、弟の時頼が5代執権に就任。
鎌倉幕府第4代執権・北条経時の病没に伴い、弟の北条時頼が第5代執権に就任しました。
1246年(寛元4年3月23日)、鎌倉幕府の執権として実権を握っていた北条経時が重病に陥り病没しました。跡を継いだ弟の北条時頼は第5代執権となり、執権政治の体制を安定させる改革を進めました。時頼は評定衆の整備や恩給率法の導入などを行い、武士の統制や訴訟制度の強化に努めました。彼の治世により幕府の統治機構はより効率的となり、北条氏の権力基盤が確固たるものになりました。時頼の改革は鎌倉幕府の最盛期を支える重要な契機となりました。
1246年
寛元
3月23日
執権
北条経時
時頼
文永5年2月27日
元寇: 鎌倉幕府が蒙古来襲に備えて西国御家人らに防備を命じる。
鎌倉幕府が元寇来襲に備え、西国御家人に防備指示を出しました。
1268年(文永5年2月27日)、鎌倉幕府は蒙古(元)による日本侵攻の噂を受け、西国の御家人たちに対して城砦の強化や兵馬の配置など防備態勢の整備を命じました。この命令は元寇に備えた最初の具体的な指示とされ、後の文永の役(1274年)に向けた準備段階と位置付けられます。幕府は全国各地で狼煙台の設置や注意番の配備を進め、外敵からの防衛意識を高めました。この動きは武士社会の連帯感を生み、西国御家人の軍事力強化につながりました。結果として元軍の来襲時には一定の防衛線が構築され、日本側の抵抗能力向上に寄与しました。
1268年
文永
2月27日
元寇
1302年
フランス王フィリップ4世が初の三身分合同会議(三部会)を開催。
フランス王フィリップ4世が第三身分を含む初の三部会を招集し、議会制度の礎を築きました。
1302年、フランス王フィリップ4世(美男子王)は財政難を背景に貴族・聖職者・平民の三身分から代表を選出する『三部会』を招集しました。これはフランスにおける初の全国的な身分代表制議会であり、国王が課税を承認させるための手段として利用されました。第三身分の参加はそれまでの王権支配に変化をもたらし、後の議会制度発展の道を開く重要な契機となりました。会議では戦費調達や教会権力との駆け引きが行われ、国政への市民参加の意識が芽生えました。三部会の概念は後のヨーロッパ各国の議会制度にも大きな影響を与えました。
1302年
フィリップ4世
三部会
明暦3年2月27日
徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手。完成は250年後の1906年。
徳川光圀が日本史書『大日本史』の編纂を開始。250年をかけた大事業の第一歩でした。
1657年(明暦3年2月27日)、水戸藩主徳川光圀は『大日本史』の編纂を命じられ、編集作業に着手しました。本書は中国の正史にならい帝王や国家の歴史を編年体で記す大著で、完成までに約250年を要し1906年に全40巻で完成しました。江戸時代を通じて水戸学の中心的な研究対象となり、国家意識や尊王思想の醸成に寄与しました。編纂には多くの学者や藩士が参加し、文献収集や考証が徹底的に行われました。本書は日本史研究の基礎資料として高く評価され、現代まで学術的価値が認められています。
1657年
明暦
2月27日
徳川光圀
大日本史
編纂
1906年
1741年
オーストリア継承戦争: モルヴィッツの戦い。シュレージェンのモルヴィッツでフリードリヒ2世率いるプロイセン軍がマリア・テレジア率いるオーストリア軍を破る。
モルヴィッツの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍を破り、フリードリヒ2世の軍事的手腕が示されました。
1741年、オーストリア継承戦争の初期段階でモルヴィッツの戦いが行われました。プロイセン王フリードリヒ2世はシュレージェン地方のモルヴィッツでオーストリア女帝マリア・テレジア率いる軍と対峙。厳しい戦闘の末、プロイセン軍が勝利を収め、シュレージェン奪取への足がかりを築きました。この戦いはフリードリヒ2世の優れた戦術眼を示すものであり、プロイセンの軍事的台頭を象徴しました。オーストリア継承戦争はこの勝利によりヨーロッパにおける勢力均衡を大きく揺るがしました。
1741年
オーストリア継承戦争
モルヴィッツの戦い
シュレージェン
フリードリヒ2世
プロイセン
マリア・テレジア
オーストリア
1815年
インドネシアのタンボラ山で過去最大規模の噴火が始まる。この影響により翌年は世界各地で夏のない年と呼ばれる異常気象となる。
タンボラ山の史上最大級の噴火が始まり、翌年の『夏のない年』を招いた異常気象を引き起こしました。
1815年4月10日、インドネシアのスマトラ島とジャワ島の間に位置するタンボラ山で史上最大級(VEI7)の大噴火が発生しました。火山灰や火山弾は数十キロメートルにわたり飛散し、津波や地震による被害も甚大でした。噴煙は成層圏まで達し、地球規模で気候変動を引き起こしました。噴火の影響で1816年には世界各地で異常低温が続き、『夏のない年』と呼ばれる飢饉や農作物の不作が発生しました。ヨーロッパや北米では霜害や飢饉が社会不安を招き、文学や文化にも影響を与えました。
1815年
インドネシア
タンボラ山
過去最大規模の噴火
夏のない年
1827年
ジョージ・カニングがイギリスの第23代首相に就任。
ジョージ・カニングがイギリス第23代首相に就任しました。短命政権はわずか4か月で終わります。
1827年4月10日、ジョージ・カニングがイギリスの第23代首相に就任しました。元外相として南アメリカ独立諸国の支援を行い、自由貿易思想を推進した政治家です。しかし就任からわずか4か月後に健康を崩し、同年8月に在任中に急逝しました。短命政権ながら、彼の対外政策や国内での経済自由化への意欲は評価されています。カニングの死後、次のリーダーが政権を継ぎ、彼の政策の一部は後任にも受け継がれました。
1827年
ジョージ・カニング
1848年
ロンドンのケニントン・コモン広場でのチャーティスト集会と第三回国民請願
1848年4月10日、ロンドンのケニントン・コモン広場でチャーティストが集会を開き、労働者階級の参政権拡大を求める第三回国民請願を提出しました。
チャーティスト運動は19世紀半ばのイギリスで、労働者階級の参政権拡大を求めた政治運動です。1848年4月10日、ロンドンのケニントン・コモン広場に約8万人が集まり、国会への第三回国民請願を携えて行進しました。請願書には選挙権の拡大や秘密投票制など6項目の要求が盛り込まれていました。集会後、代表団はホイッグ政権に嘆願しましたが、採択は見送られました。警察は集会を厳重に監視し、一部で小競り合いが発生しました。チャーティスト運動はその後も継続し、後の選挙改革に影響を与えました。
1848年
ロンドン
チャーティスト
1864年
オーストリアのマクシミリアン大公がメキシコ帝国皇帝に就任。
1864年4月10日、オーストリアのマクシミリアン大公がフランスの後ろ盾を受けてメキシコ帝国の皇帝に就任しました。
第二帝政期のメキシコでは、フランスを中心とした欧州列強が保守派政権樹立を目指して介入しました。ナポレオン3世の計画により、傀儡政権の皇帝としてオーストリア大公マクシミリアンが擁立されました。彼はメキシコのカトリック教徒の支持を受けて皇位に就きましたが、共和派のベニート・フアレス政権と対立しました。マクシミリアンは統治改革や土地再分配などの近代化政策を試みましたが、民衆の支持は限定的でした。1867年にフランス軍支援が撤退すると、彼の立場は急速に弱体化しました。最終的に共和国軍により捕えられ、同年に処刑されました。メキシコ帝国の短命な歴史は、外国勢力の介入と国内対立の象徴となっています。
1864年
マクシミリアン大公
メキシコ帝国