1888年
東京・下谷黒門町に日本初のコーヒー専門店「可否茶館」が開店。
1888年、東京・下谷黒門町に日本初のコーヒー専門店「可否茶館」が開店し、新たな喫茶文化の幕開けとなりました。
可否茶館は日本初のコーヒー専門店として1888年4月13日に東京・下谷黒門町でオープンしました。
店名は「Coffee」をもじって「可否」と名付けられ、おしゃれな洋風喫茶の雰囲気を演出しました。
当時、日本でコーヒー豆の輸入が増え始め、洋食文化やカフェ文化が徐々に広まりつつありました。
可否茶館はコーヒーを主役にした新しい嗜好品として庶民の注目を集めました。
店内は西洋風のインテリアで統一され、新聞や雑誌を読みながらくつろげる空間が提供されました。
その後、全国に喫茶店が広がり、日本独自の喫茶文化が形成されていくきっかけとなりました。
1888年
コーヒー専門店
1903年
日本で小学校令が改正され国定教科書制度が取り入れられる。
1903年、小学校令が改正され、全国共通の国定教科書制度が導入されました。
1903年4月13日、文部省は小学校令を改正し、全国共通の国定教科書制度を導入しました。
これまで民間出版社が発行した教科書が使用されていたが、品質や内容の統一が課題とされていました。
国定教科書は国家が検定した教科書を小学校で使用する制度で、教育の標準化を図るものでした。
制度導入により、地域間の教育格差是正や国家理念の浸透が期待されました。
しかし、画一的な内容が自由な思考を阻害するとの批判もありました。
この制度は戦後の検定教科書制度へと発展し、現代の教育制度の基礎となりました。
1903年
日本
小学校令
国定教科書
1922年
少年団日本連盟(現在のボーイスカウト日本連盟)結成。
1922年、少年団日本連盟(現在のボーイスカウト日本連盟)が結成され、青少年育成活動が始まりました。
1922年4月13日、イギリス発祥のボーイスカウト運動に基づき、少年団日本連盟が設立されました。
創設当初は男子向けの青少年育成組織として自然体験や野外活動、奉仕精神を重んじる教育方針が特徴でした。
結成当初は数百人規模でしたが、全国各地に支部が広がりました。
後に名称を変更し、ボーイスカウト日本連盟として現在に至ります。
今日では国内外で幅広い世代の青少年が参加する活動となっています。
野外活動を通じたリーダーシップ育成が当初からの柱となっています。
1922年
ボーイスカウト日本連盟
1982年
毎年8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが日本の閣議で決定。
日本の閣議で8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」と定めることが決定した。
1982年4月13日、日本政府は閣議で8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることを正式に決定した。
この日付は終戦記念日に当たり、先の大戦で命を落とした多くの英霊を追悼し、二度と戦争を繰り返さない決意を確認する意義がある。
制定後、全国各地で追悼行事や平和祈念式が行われるようになり、戦後日本の平和主義を象徴する日として定着した。
政府主催の全国戦没者追悼式は例年8月15日に日本武道館で執り行われ、天皇・皇后両陛下も参列される。
この閣議決定は戦後史の重要な節目となった。
1982年
8月15日
戦歿者を追悼し平和を祈念する日
日本の閣議
1986年
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がローマ教皇として史上初めてシナゴーグを訪問。
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が史上初めてシナゴーグを訪問した。
1986年4月13日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はバチカンを離れ、史上初めてユダヤ教礼拝堂(シナゴーグ)を公式訪問した。
訪問先はローマのシナゴーグで、長年にわたるキリスト教とユダヤ教の関係改善を象徴する歴史的な一歩となった。
教皇は礼拝堂で共に祈りを捧げ、ユダヤ教徒への謝罪と友好の意志を表明した。
この訪問はユダヤ・キリスト教間の和解を促進し、宗教間対話の重要性を世界に示した。
以降、教皇庁は異宗教間の理解と協力に積極的に取り組む姿勢をさらに強めた。
1986年
ローマ教皇
ヨハネ・パウロ2世
シナゴーグ
1991年
東海大学安楽死事件がおこる。
東海大学病院で医師が患者への安楽死を試み、社会的議論を呼び起こしました。
1991年4月13日、東海大学医学部付属病院で医師らが末期患者に対して投与薬剤の調整などにより生命維持を停止し、いわゆる安楽死を行おうとした事件が発覚しました。この事件では法的な安楽死の根拠が日本に存在しなかったため、医師らは後に法廷で問われ、倫理と法制度の狭間で安楽死の定義が焦点となりました。報道を通じて世論は医師の責任と終末期医療の在り方について活発な議論を交わし、安楽死をめぐる法整備の必要性が浮き彫りになりました。結果として、日本では尊厳死やリビングウィルの導入検討が進み、医療現場と社会の橋渡しとして重要な契機となりました。
1991年
東海大学安楽死事件