871年
ウェセックス王エゼルウルフの息子アルフレッドが西サクソン人の王に就任。のちのアルフレッド大王である。
ウェセックス王アルフレッドが父エゼルウルフの跡を継ぎ、西サクソン人の王として即位しました。
後にアルフレッド大王として知られる歴史的人物の始まりです。
871年4月23日、ウェセックス王エゼルウルフの息子アルフレッドが西サクソン人の王に即位しました。
若き日のアルフレッドは異民族の侵攻を防ぎ、法整備を行うなどの業績を残します。
特にヴァイキングとの抗争で一時は苦境に立たされましたが、後に反撃に転じます。
学問と文化を奨励し、英語による文書化や教育制度の整備に力を入れました。
これらの功績から歴史上「アルフレッド大王」と称されるに至りました。
871年
ウェセックス王
英語版
エゼルウルフ
アルフレッド
西サクソン人の王
英語版
1348年
イングランド王エドワード3世が、アーサー王と円卓の騎士の精神に触発され、ガーター騎士団を設立。騎士団の守護聖人は聖ジョージで、欠員時の任命は聖ジョージの日(4月23日)に発表される。
エドワード3世がアーサー王伝説に触発され、1348年にイギリス最古の騎士修道会「ガーター騎士団」を創設しました。
1348年4月23日、イングランド王エドワード3世はアーサー王と円卓の騎士の精神を模範とし、騎士道の理想を体現するためにガーター騎士団を設立しました。
騎士団の守護聖人には聖ジョージを定め、紋章や儀式にキリスト教的要素を取り入れました。
団員の欠員時には聖ジョージの日(4月23日)に新たな騎士が任命される慣習が生まれました。
この騎士団は現代に至るまで続くイギリス王室の名誉ある勲章制度として知られています。
中世ヨーロッパの騎士道文化を象徴する存在として高い評価を受けています。
1348年
イングランド
エドワード3世
アーサー王と円卓の騎士
ガーター騎士団
1702年
イングランド。スコットランド女王のアンの戴冠式が催行される。
1702年にアンがイングランド女王として戴冠し、スコットランド女王と合わせて即位式が行われました。
1702年4月23日、アンはイングランドとスコットランドの女王として戴冠式を挙行しました。
イギリス王室の王位継承と統合において重要な儀式の一つとされます。
アン女王は在位中にスペイン継承戦争や宗教的対立に直面し、国内外の政治に影響を与えました。
また、彼女は文学や演劇を保護し、文化面でも功績を残しました。
戴冠式当日はロンドン塔やウェストミンスター寺院に多くの群衆が詰めかけました。
1702年
アン
戴冠式
明治2年3月12日
明治天皇が歴代天皇で初めて伊勢神宮に参拝。
1869年、明治天皇が歴代天皇として初めて伊勢神宮に参拝し、国家神道の基礎を築きました。
1869年4月23日(明治2年3月12日)、明治天皇は伊勢神宮に参拝し、皇室と神道の結びつきを強調しました。
それまでの天皇参拝の慣例を変え、近代国家の儀式として公的に位置づけた歴史的行為です。
この参拝により国家神道が形成され、以後の明治政府の宗教政策に大きな影響を与えました。
参拝には政府高官や軍人が随行し、式典は近代的な演出を交えたものとなりました。
国家と宗教の関係における転換点として、後の伝統行事にも影響を及ぼしました。
1869年
明治
3月12日
明治天皇
伊勢神宮
1889年
ウィリアム・グラッドストンがイギリスの第43代首相に就任。
1889年、ウィリアム・グラッドストンがイギリスの第43代首相に就任しました。
1889年4月23日、自由党の指導者ウィリアム・グラッドストンがイギリス第43代首相に就任しました。
これが彼にとって4度目の首相就任であり、史上最多の在任記録に並ぶものでした。
グラッドストンは国内改革や自由貿易の推進、アイルランド自治法案などを掲げました。
彼の政治姿勢は当時のイギリス政治に大きな議論を呼び、支持者と反対派の対立を深めました。
在任期間中、社会政策や財政改革にも取り組み、リベラル派の代表的政治家として名を残しました。
1889年
ウィリアム・グラッドストン
1889年
スウェーデン社会民主労働党発足。
1889年、スウェーデン社会民主労働党が結党され、北欧の社会民主主義運動が始動しました。
1889年4月23日、スウェーデンにおいて労働者の権利擁護を目的としたスウェーデン社会民主労働党が発足しました。
創設メンバーは労働組合活動家や社会改革を目指す知識人たちで構成されました。
党は漸進的社会改革、普遍的参政権、労働条件改善を掲げ、後の福祉国家形成に影響を与えました。
発足当初は政府からの弾圧や資金不足に直面しながらも、組織拡大を図りました。
その後、20世紀に入り政権与党として北欧モデルの基礎を築く中心勢力となりました。
スウェーデン社会民主労働党
1895年
三国干渉: ロシア・ドイツ・フランスが下関条約で日本領有となった遼東半島の清への返還を勧告。日本は5月4日この勧告の受諾を決定。
三国干渉とは、1895年にロシア・ドイツ・フランスが下関条約で得た遼東半島を清に返還するよう日本に勧告した外交事件です。
日清戦争終結後、下関条約で日本は遼東半島を領有。
ロシア・ドイツ・フランスが共同で返還を要求する勧告書を提出。
日本政府は軍事的対抗を検討したが、国際的孤立を避けて受諾を決定。
5月4日に清への返還を承認し、遼東半島を放棄。
列強の勢力均衡を背景に国内で国粋主義の高まりを招き、その後の対外政策に影響を与えました。
1895年
三国干渉
ロシア
ドイツ
フランス
下関条約
日本
遼東半島
清
5月4日
1905年
フランスで社会党が結成される。
フランスで初の統一された社会主義政党が結成され、労働運動の政治的影響力を拡大しました。
1905年4月23日、フランスの主要な社会主義団体が合同し、フランス社会党を発足。
労働者の権利擁護や社会改革を掲げる統一組織として結成された。
党は労働組合や協同組合との連携を強化し、政治的勢力化を図る。
国内で分裂しがちだった社会主義勢力の統合を目指す重要な試み。
ヨーロッパの社会主義運動における節目として、その後の政党勢力形成に影響を与えました。
1905年
フランス
社会党
1920年
オスマン帝国(トルコ)のアンカラでムスタファ・ケマルを議長とする大国民議会が開催。
ムスタファ・ケマルを議長に、アンカラで大国民議会が初めて開催され、トルコ独立運動の拠点となりました。
1920年4月23日、オスマン帝国崩壊期のアンカラで大国民議会が初会合。
議長にはムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)が選出された。
トルコの主権回復と国家建設を目指す政治機関として機能。
列強との戦闘継続や国内改革を主導し、独立闘争の中心となった。
この議会は後のトルコ共和国樹立の基礎を築き、大転換を促す重要な役割を果たしました。
1920年
オスマン帝国
トルコ
アンカラ
ムスタファ・ケマル
大国民議会
1951年
第2回統一地方選挙実施。
1951年4月23日、日本全国の地方自治体で第2回統一地方選挙が実施され、都道府県知事選や市町村長選などが一斉に行われました。
第2回統一地方選挙は1947年に始まった全国一斉地方選挙の第2回目として開催されました。
この選挙では都道府県知事選挙、県議会議員選挙、市町村長選挙、市町村議会議員選挙が同時に実施され、地方自治の民主化が進みました。
投票日は1951年4月23日で、戦後の混乱期を経て地方行政の安定化に寄与した重要な節目となりました。
候補者は政党推薦や無所属など多様で、地域ごとの課題が選挙戦の焦点となりました。
この選挙を契機に、以後4年ごとに統一地方選挙が実施される仕組みが確立されました。
1951年
第2回統一地方選挙
1990年
ナミビアが国際連合に加盟。
1990年4月23日、ナミビアが国際連合に加盟し、独立国家として国際社会に正式に認められました。
ナミビアは南アフリカの統治から1990年3月21日に独立を達成し、国連加盟を申請しました。
4月23日に国連総会で加盟が承認され、正式に第160番目の加盟国となりました。
冷戦構造の中、南部アフリカの民主化過程を象徴する出来事でした。
加盟により国際支援や経済協力が活発化し、新生ナミビアの国家建設に寄与しました。
また、国連加盟は人種隔離政策撤廃への国際的圧力を強める要因ともなりました。
その後、ナミビアは国連の平和維持活動にも積極的に参加しています。
1990年
ナミビア
国際連合
1991年
救急救命士法が公布される。
1991年4月23日、救急救命士法が公布され、専門的な救急医療従事者の制度が法制化されました。
従来、救急現場では主に看護師や消防士が対応していましたが、救急救命士の法制度化が課題となっていました。
公布された救急救命士法により、救急救命士の資格要件や業務範囲が明確化されました。
これに伴い、救急救命士養成所での教育課程や国家試験制度が整備されました。
法の施行後は高度な医療行為が救急現場で可能となり、救命率向上に貢献しました。
現在では救急医療チームの中核として重要な役割を担っています。
1991年
救急救命士法