1776年
アダム・ヴァイスハオプトが秘密結社イルミナティを設立。
啓蒙思想家アダム・ヴァイスハオプトが秘密結社イルミナティを創設しました。
・1776年、哲学者アダム・ヴァイスハオプトがバイエルン州インゴルシュタットでイルミナティを設立
・啓蒙思想に基づき自由主義や平等主義を掲げた秘密結社
・政治的改革を目指し、文学や学術にも影響を与える
・後に数々の陰謀論や神秘主義と結び付けられ、世界的に注目される
・啓蒙時代の知的運動とその裏側を象徴する興味深い存在です。
1776年
アダム・ヴァイスハオプト
英語版
イルミナティ
1877年
佐野常民と大給恒が西南戦争負傷者の救護のために博愛社(日本赤十字社の前身)を創設。
1877年5月1日、佐野常民らが博愛社(日本赤十字社の前身)を創設しました。
1877年5月1日、佐野常民と大給恒が西南戦争の負傷者救護を目的に博愛社を創設しました。
博愛社は傷病兵への看護や食糧、医療物資の提供を行い、戦時救護の先駆けとなりました。
のちに日本赤十字社と改称され、国際赤十字運動に加盟します。
民間主導の人道支援組織として国内外での活動が広がり、日本の社会福祉の基礎を築きました。
佐野常民の理念は「人道博愛」を掲げたもので、現代まで継承されています。
1877年
佐野常民
大給恒
西南戦争
日本赤十字社
1886年
シカゴの労働者が8時間労働制を求めてストライキ。メーデーの起源。
1886年5月1日、シカゴの労働者が8時間労働制を求めてストライキを起こし、メーデーの起源となりました。
1886年5月1日、シカゴの労働者が8時間労働制を求めて大規模なストライキを起こしました。
当時は長時間労働が一般的で、過酷な労働環境への不満が高まっていました。
ストライキは警察との衝突など暴力沙汰に発展し、多くの死傷者が出ました。
この出来事は後に「メーデー」として5月1日の労働者祭典の起源となりました。
以後、世界中で労働条件改善を訴える象徴的な日として定着しました。
1886年
シカゴ
8時間労働制
ストライキ
メーデー
1890年
第二インターナショナルの決議に基づき、世界各地で「第1回国際メーデー」が開催される。
1890年5月1日、第二インターナショナルの決議により第1回国際メーデーが開催されました。
1890年5月1日、第二インターナショナルのパリ大会で決議された「国際メーデー」が世界各地で開催されました。
労働者の8時間労働制や労働権の確立を求めるデモや集会が行われました。
欧米を中心に多数の都市で労働者が参加し、労働運動の国際的な連帯が示されました。
メーデーは社会運動として定着し、労働者の権利擁護に大きな影響を与えました。
現在も各地で祝日や集会として継続されています。
1890年
第二インターナショナル
1925年
産業組合中央会の家庭向け機関誌『家の光』創刊。
農家向け情報誌『家の光』が創刊され、家庭や農村の生活改善に寄与しました。
1925年5月1日に産業組合中央会が家庭向け機関誌『家の光』を創刊しました。
農業技術や家計管理、料理レシピなど多彩な情報を掲載し、農村地域の知識共有を支援しました。
女性や家族向けの教育コンテンツも充実し、家庭の自立支援に寄与しました。
読者同士の交流や投稿コーナーを通じてコミュニティ形成を促進しました。
長寿媒体として現在も発行され、農村文化を伝える役割を担っています。
1925年
家の光
1931年
大阪帝国大学設置。
西日本初の帝国大学として大阪帝国大学が設置されました。
1931年5月1日に大阪帝国大学が設置され、西日本で初めての帝国大学となりました。
法学部・理学部・医学部など複数の学部を擁し、総合大学として発足しました。
地域の高等教育機関や研究拠点として機能し、多くの人材を輩出しました。
戦後は大阪大学に改組され、現在に至る日本有数の研究大学へと発展しました。
近代日本の学術研究と産業発展を支えた重要な瞬間です。
大阪帝国大学
1946年
日本でメーデーが11年ぶりに復活。50万人が宮城前広場に参集。
1946年5月1日、戦後11年ぶりに日本でメーデーが復活し、50万人が宮城前広場に集結しました。
メーデーは労働者の国際的な祭典として知られ、1935年以降禁止されていましたが、戦後の民主化のなかで復活しました。
1946年5月1日に開催された東京・宮城前広場の集会には約50万人が参加し、労働条件の改善や平和の訴えが行われました。
新たに結成された労働組合が中心となり、労働者の権利回復が国内外で注目を集めました。
この復興メーデーは戦後日本の労働運動史において重要な転機となりました。
1946年
宮城前広場
1952年
血のメーデー事件。
1952年のメーデー集会において、警官隊とデモ隊が衝突し負傷者が出た流血事件。
1952年5月1日、東京都内で開催されたメーデー(労働者の祭典)集会で、警視庁機動隊が旗竿検査を行おうとしたことを契機に労働者や学生が抗議。
両者がもみ合いとなり、デモ隊側に多数の負傷者が発生した。
この出来事は『血のメーデー』と呼ばれ、戦後の労働運動と警察取締りの緊張関係を象徴する事件となった。
事件後には労働組合や市民団体が警察権限の強化に抗議し、表現の自由や集会の権利を巡る議論が高まった。
以降の労働運動史において重要な転機の一つと位置づけられている。
1952年
血のメーデー事件
1952年
東北地方最初の民放局・仙台放送(ラジオ仙台、現・東北放送)開局。
1952年5月1日、東北地方初の民間放送局・仙台放送(現・東北放送)が開局した。
1952年5月1日、仙台市にて東北地方初の民間放送局として仙台放送(ラジオ仙台、現在の東北放送)が放送を開始。
地域ニュースや音楽番組、住民参加型企画などを通じて、地元情報を発信する役割を担った。
開局当初は限られた送信出力ながらも、東北各地に向けた番組制作に力を入れた。
その後の技術革新や番組ネットワーク拡大により、東北地方のメディアの中心的存在となった。
現在もテレビ・ラジオの両面で地域密着型放送を展開し続けている。
東北地方
民放局
東北放送
1960年
日本初の民放FM局・FM東海(後のTOKYO FM)が東海大学によって開局される。
1960年5月1日、日本初の民間FM局としてFM東海(後のTOKYO FM)が開局した。
1960年5月1日、東海大学が運営主体となり、日本初の民放FM局・FM東海が放送を開始。
当初は音楽中心の編成で、クリアな高音質放送を特色とし、若年層を中心に支持を集めた。
その後、1970年にTOKYO FMへと名称変更し、東京エリアを中心としたFMネットワークの中核を担った。
番組制作や技術面で先進的な試みを行い、FM文化の普及と放送品質向上に寄与した。
現在も多様なジャンルの番組を放送し続け、日本のFMラジオ放送を代表する局となっている。
TOKYO FM
東海大学
1969年
サンテレビジョン開局。
兵庫県を中心に放送する民間テレビ局「サンテレビジョン」が1969年5月1日に開局しました。
地域密着型の番組で多くの視聴者を獲得しました。
サンテレビジョンは兵庫県西部と大阪府の一部を放送エリアとする独立UHF局です。
1969年5月1日に開局し、ニュースや情報番組、スポーツ中継など幅広いコンテンツを提供しました。
放送開始当初から地域に密着した番組作りを行い、地元住民の支持を集めました。
技術面ではUHF波を活用したカラーテレビ放送を導入し、視聴環境の向上に貢献しました。
1980年代以降はローカルCMやイベント中継に力を入れ、広告収入の拡大を図りました。
現在も地域ニュースや番組配信を通じて地域メディアの役割を果たしています。
1969年
サンテレビジョン
1971年
千葉テレビ放送開局。
千葉県をサービスエリアとする独立系テレビ局「千葉テレビ放送」が1971年5月1日に開局しました。
地域の情報発信拠点として注目されました。
千葉テレビ放送(CTC)は千葉県全域を放送対象とする独立UHF局です。
1971年5月1日に開局し、ニュース、生活情報番組、ローカルバラエティなどを放送しました。
開局当初は首都圏外の視聴者に新たな選択肢を提供し、地域密着の編成で差別化を図りました。
地元企業のCMや地域イベントの中継を積極的に展開し、地域経済の活性化にも寄与しました。
現在ではデジタル放送やインターネット配信にも対応し、多様なプラットフォームで視聴可能です。
1971年
千葉テレビ放送