1268年

アンティオキア公国がマムルーク朝スルタン・バイバルスにより滅亡。

十字軍国家の一つであったアンティオキア公国がマムルーク朝に征服され、滅亡しました。
1268年5月18日、アンティオキア公国はマムルーク朝スルタン・バイバルスの攻勢を受けて滅亡しました。 アンティオキア公国は第1回十字軍以降、約200年間にわたり中東における重要な十字軍国家の一つとして存続していました。 バイバルスはダマスカスを拠点にエジプトから派遣された強力なマムルーク軍を指揮し、着実にキリスト教勢力を後退させました。 最後の防衛拠点であった都市アンティオキアは包囲され、落城の後、多くの守備兵と市民が捕虜となりました。 この滅亡により、十字軍国家の領土は地中海沿岸部に限定され、中東における十字軍の勢力は大きく衰退します。 バイバルスはその後もイスラム世界での権威を強固にし、マムルーク朝の全盛期を築きました。
1268年 アンティオキア公国 マムルーク朝 バイバルス
天正12年4月9日

長久手の戦い。

織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉軍が衝突した戦国時代の戦いです。 火器戦術の進化を示す場面も見られました。
1584年5月18日、長久手(現在の愛知県長久手市)で織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉軍が激突しました。 前年に起こった小牧・長久手の戦いの延長線上で行われ、両軍は城攻めと迎撃を繰り返しました。 両軍ともに鉄砲隊を効果的に運用し、戦国時代における火器戦術の進化を示す場面となりました。 結果は両軍の消耗戦となり、明確な勝敗はつかないまま撤退が行われました。 この戦いを経て、秀吉は最終的に織田家の家督を掌握し、天下統一への道を強固にしました。 戦跡は市史跡として保存され、毎年資料館などで当時の様子が紹介されています。
1584年 天正 4月9日 長久手の戦い
1756年

イングランドがフランスに宣戦布告し、七年戦争が始まる。

イギリスがフランスに宣戦布告し、世界規模の七年戦争が始まりました。
1756年5月18日、イギリスがフランスに宣戦布告し、七年戦争が正式に勃発しました。 七年戦争はヨーロッパ、北米、インド、カリブ海など世界各地に戦線が広がった最初の世界規模の大規模戦争です。 イギリスとフランスは植民地支配を巡って激しく対立し、多くの海戦や陸戦が行われました。 ヨーロッパではプロイセン王フリードリヒ2世がオーストリア・ロシア連合と戦い、バランス・オブ・パワーが試されました。 戦争は各国の財政を圧迫し、後のアメリカ独立戦争やフランス革命の遠因ともいわれます。 最終的に1763年のパリ条約で休戦となり、イギリスは北米とインドで大きな領土拡大を実現しました。
1756年 イングランド フランス 七年戦争
1775年

大陸海軍が初代「エンタープライズ」を「ジョージ」という艦名で取得する。

大陸海軍が初代艦「エンタープライズ」を「ジョージ」の艦名で取得しました。
1775年5月18日、アメリカ独立戦争勃発直後に設立された大陸海軍が艦艇を取得しました。 初代『エンタープライズ』と呼ばれるこの船は、当初『ジョージ』の名前で調達されました。 小型で機動性に優れたこの艦は沿岸警備や輸送任務に活用され、海上戦力の基礎となります。 後に名称が『エンタープライズ』に改められ、アメリカ海軍歴史上最長寿の艦名として知られるようになります。 この取得は大陸会議による海軍創設の象徴的な出来事で、後の海軍発展を支えました。 独立戦争期の海戦では私掠船との混成戦術が用いられ、大陸海軍の戦略に大きな影響を与えました。
1775年 大陸海軍
1803年

ナポレオン戦争: イギリスがアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦。

イギリスがアミアンの和約を破棄し、ナポレオン戦争が再開されました。
1803年5月18日、イギリスは1802年に結ばれたアミアンの和約を一方的に破棄してフランスに宣戦布告しました。 これによりナポレオン戦争が再開し、ヨーロッパ各地で激しい戦闘が繰り広げられます。 フランスの各都市では兵站強化と国民動員法の制定が進み、戦時体制が整えられました。 イギリスは強力な海軍力を背景に本拠地防衛と対仏海上封鎖を強化しました。 両国の対立は大陸封鎖令の発令や海戦、植民地戦争へと波及し、世界規模の戦闘に発展します。 この再開はナポレオンの台頭を象徴し、19世紀初頭の欧州情勢を決定づけました。
1803年 ナポレオン戦争 イギリス アミアンの和約 フランス
1811年

ウルグアイ独立戦争: ラス・ピエドラスの戦い。

ウルグアイ独立戦争でラス・ピエドラスの戦いが行われ、独立運動が勢いを増しました。
1811年5月18日、ウルグアイ独立戦争においてラス・ピエドラスの戦いが発生しました。 指導者ホセ・ヘルバシオ・アルティガス率いる反乱軍がスペイン王党派の守備隊を攻撃しました。 戦闘はモンテビデオ近郊で行われ、終始アルティガス軍が優位に立ちました。 この勝利によりアルティガスは国民的英雄としての地位を確立し、独立運動に弾みがつきます。 ラス・ピエドラスの成功はその後の統一的な軍事行動と政治的統合を促進しました。 最終的に1828年のブラジリア条約によりウルグアイの独立が承認されます。
1811年 ウルグアイ ラス・ピエドラスの戦い
1863年

南北戦争: ビックスバーグの包囲戦が始まる。

南北戦争中、北軍が南部連合の要衝ビックスバーグを包囲しました。 ミシシッピ川制圧への重要な一歩となった戦いです。
南北戦争において、北軍は南部連合の要衝ビックスバーグ攻略を図りました。 包囲戦では砲撃と断水を軸とし、物資補給を絶つことで南軍を追い込みました。 ミシシッピ川を制圧して南北を分断する戦略の要として位置づけられました。 長期にわたる包囲は兵士や市民の苦境を生み、多数の犠牲者を出しました。 最終的に北軍の勝利は南北戦争の大きな転換点となりました。
1863年 南北戦争 ビックスバーグの包囲戦
1944年

第二次世界大戦: モンテ・カッシーノの戦いが終結。

第二次世界大戦のイタリア戦線で連合軍と枢軸軍が激戦を繰り広げたモンテ・カッシーノの戦いが終結しました。
1944年5月18日、連合軍は度重なる攻勢の末、ドイツ軍の守備線を突破しモンテ・カッシーノの戦いが終結しました。 修道院の爆撃と地上戦は激烈を極め、多くの将兵が犠牲となりました。 この戦いはイタリア半島南部攻略の鍵を握る戦闘であり、連合軍の南進を加速させました。 枢軸軍側は熟練部隊で抵抗し、高い死傷率を記録しました。 戦後、修道院は再建され、戦争の悲劇を伝える記念碑が建立されました。
1944年 第二次世界大戦 モンテ・カッシーノの戦い
2009年

スリランカ内戦: タミル・イーラム解放のトラ (LTTE) の最高指導者ヴェルピライ・プラバカランが殺害され、LTTEが事実上壊滅。

LTTE最高指導者プラバカランが殺害され内戦が終結へ向かった。
2009年5月18日、スリランカ内戦においてタミル・イーラム解放のトラ (LTTE) の最高指導者ヴェルピライ・プラバカランが政府軍との交戦で殺害され、LTTEが事実上壊滅した。これにより26年以上にわたる内戦は終結し、スリランカは和平プロセスに移行した。プラバカランはテロ組織として国際的にも指名手配されており、その死は長期紛争の歴史に一区切りを付けた。戦後復興や民族和解の取り組みが注目されるようになった。
2009年 スリランカ内戦 タミル・イーラム解放のトラ ヴェルピライ・プラバカラン