1621年

プロテスタント同盟が解散。

ドイツ諸侯によるプロテスタント同盟が解散した。
1621年5月24日、神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯からなるプロテスタント同盟が解散した。 1608年に結成された同盟は、カトリック同盟との対立緩和を図ったが、成果を上げられなかった。 解散後、プロテスタント勢力はばらばらとなり、1621年の白山の戦いで大敗北を喫した。 同盟の解体は三十年戦争の遠因となり、ヨーロッパの宗教・政治秩序に大きな影響を及ぼした。 以後、帝国内の宗教対立はさらに激化した。
1621年 プロテスタント同盟
1873年

フランス第三共和政大統領アドルフ・ティエールが国民議会の議決により辞任。パトリス・ド・マクマオンが第2代大統領に就任。

1873年5月24日、フランス第三共和政の初代大統領ティエールが辞任し、マクマオンが第2代大統領に就任しました。
1873年5月24日、初代大統領アドルフ・ティエールは財政難や政治的対立を理由に国民議会の議決を受けて辞任しました。 同日、保守強硬派の軍人パトリス・ド・マクマオンが議会で選出され、第2代フランス共和国大統領に就任しました。 マクマオンは王政復古を望む勢力と共和制勢力の均衡を図りつつ、憲政の安定化に取り組みました。 しかし、彼の治世下では五年任期の大統領制を巡る議論や政権内対立が続きました。 最終的にマクマオンは1879年に辞職し、第三共和政は議会主導体制へと移行しました。
1873年 フランス第三共和政 アドルフ・ティエール 国民議会 パトリス・ド・マクマオン
1946年

山本実彦らが協同民主党を結成。

戦後の政界改革期に、山本実彦らが中道志向の協同民主党を結成した。
1946年5月24日、山本実彦を中心とする政治家たちが協同民主党を結成しました。 同党は農業協同組合出身者や地方有力者を基盤とし、中道的な立場を標榜しました。 戦後混乱期の政治刷新と民主主義の定着を目指し、社会要望への対応を掲げました。 組織基盤の弱さから大きな勢力拡大は実現せず、他党との合従連衡が続きました。 最終的には他党との合併や分裂を経て短命に終わりましたが、戦後政党再編の一端を担いました。
1946年 山本実彦 協同民主党
1947年

片山哲内閣が、片山哲首相の全閣僚兼任で発足。

日本初の社会党政権、片山哲内閣が全閣僚兼任という異例の体制で発足した。
1947年5月24日、片山哲を首相とする連立政権が発足しました。 日本初の社会党出身首相であり、政党間の調整が困難な中での誕生でした。 当初、閣僚人事がまとまらず、片山首相が全省庁の担当閣僚を兼務する異例の措置が取られました。 この体制は閣僚不在による行政機構の停滞を避けるための暫定的対応でした。 その後、各党から選出された閣僚が順次着任し、通常の内閣構成へ移行しました。 片山内閣は労働改革や社会福祉政策を強化し、戦後復興期の政治的課題に取り組みました。
1947年 片山哲内閣 片山哲 全閣僚兼任
1961年

キプロスが欧州評議会に加盟。

1961年5月24日、キプロスが欧州評議会に加盟しました。
キプロスは1960年にイギリスから独立し、1961年5月24日に欧州評議会に加盟しました。欧州評議会は1949年設立の人権と民主主義を推進する国際機関で、加盟によりキプロスはヨーロッパの政治・法秩序に参加しました。加盟当初はトルコ系住民とギリシャ系住民の対立も抱えつつ、外交・法制度面での国際協力を深める契機となりました。
1961年 キプロス 欧州評議会
1967年

朝日訴訟の最高裁大法廷判決。

1967年5月24日、朝日訴訟の最高裁大法廷判決が言い渡されました。
1967年 朝日訴訟 最高裁 大法廷
1980年

JOC総会でモスクワ五輪のボイコットを決定。

1980年5月24日、JOC総会でモスクワ五輪のボイコットが決定されました。
ソ連のアフガニスタン侵攻への抗議としてアメリカが主導したモスクワオリンピックのボイコット運動を受け、5月24日に日本オリンピック委員会の総会で同大会への参加を見送ることが決定されました。この決定により日本選手団は参加を断念し、政治とスポーツの関係について国内外で議論が巻き起こりました。選手や関係者には大きな失望が広がり、その後の五輪運営にも影響を残す出来事となりました。
1980年 JOC モスクワ五輪 ボイコット
1992年

タイで、軍事クーデターを起こし首相となっていたスチンダー・クラープラユーンが、民主化を求めるデモの事態収拾のため辞任。

タイで1992年5月、大規模デモを受けて軍事出身のスチンダー首相が辞任した政治的瞬間です。
1991年のクーデターで実権を握ったスチンダー・クラープラユーンは、1992年に首相に就任しました。しかし、市民による民主化要求デモ(ブラック・メイ)が激化し、軍と警察による武力鎮圧で死者も出る事態となりました。抗議の混乱を収拾し、さらなる犠牲を防ぐために5月24日に辞意を表明し、首相職を辞任しました。この辞任はタイの民主化運動を象徴する出来事となり、その後政治改革への道を開きました。
1992年 スチンダー・クラープラユーン
1993年

エリトリアがエチオピアから独立。

長年の紛争を経て、エリトリアがエチオピアから正式に独立を果たした歴史的出来事です。
1961年から続いたエリトリア独立戦争は1991年に事実上の勝利を迎えました。その後国連監督下で1993年4月末に独立の是非を問う国民投票が実施され、98.5%の賛成を得て5月24日に独立共和国が宣言されました。初代大統領には解放戦線の指導者イサイアス・アフェウェルキが就任しました。独立後は国際社会から広く承認され、国家建設と地域安定化に向けた歩みを始めました。
1993年 エリトリア エチオピア
2002年

アメリカとロシアが戦略的攻撃能力の削減に関する「モスクワ条約」に調印。

米ロ両国が戦略核兵器の削減を目指す『モスクワ条約』に調印した国際的軍縮合意です。
2002年5月24日、アメリカ合衆国のブッシュ大統領とロシア連邦のプーチン大統領が署名し、旧START条約に替わる新たな軍縮枠組みとして発効しました。条約では配備済みの戦略核弾頭を1,700~2,200発に削減し、展開配備部隊数についても上限を定めました。検証手続きは従来より簡素化され、人員削減や配備移動の柔軟性が高められました。この協定は冷戦後の米ロ関係における重要な転機と位置付けられ、2010年に採択された新STARTへとつながりました。
2002年 モスクワ条約