天祐4年/開平元年4月19日

朱全忠が大梁国(後梁)を建国する。五代十国時代の始まり。

朱全忠が五代十国時代の幕開けとなる後梁を建国しました。
朱全忠は唐末の群雄の一人で、907年に大梁国を建国して後梁を称しました。それまでの唐王朝の混乱を収束しつつ、新たな統治体制を築いたことで五代十国時代の始まりを告げました。後梁建国は五代にわたる短命王朝の先駆けとなり、華北地方での勢力争いが激化しました。朱全忠の統治は強権的な一面もあり、後の王朝交替を繰り返す要因ともなりました。中国史における重要な転換点として評価されています。
907年 天祐 開平 4月19日 朱全忠 後梁 五代十国時代
1793年

フランス革命: ジャコバン派の群衆が国民公会を包囲し、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕を議決させる。ジャコバン派による独裁・恐怖政治が始まる。

フランス革命でジャコバン派が国民公会を制圧し恐怖政治が始まりました。
1793年6月2日、パリの群衆化したジャコバン派が国民公会を包囲してジロンド派の議員を追放・逮捕させました。これによりロベスピエールらが主導する恐怖政治(レ・テロル)が本格的に開始されます。反革命分子と見なされた者への処刑や弾圧が激化し、数万人がギロチンにかけられました。革命の理念と現実のはざまで、過激派による統治の暗い側面が顕在化した瞬間でもありました。後のナポレオン台頭への伏線ともなった歴史的重要事件です。
1793年 フランス革命 ジャコバン派 国民公会 ジロンド派 恐怖政治
1886年

グロバー・クリーブランド米大統領がホワイトハウスの中で結婚式を挙げる。官邸で結婚式をした唯一の大統領。

グロバー・クリーブランド大統領がホワイトハウス内で結婚式を挙げました。
1886年6月2日、アメリカ合衆国第22代大統領グロバー・クリーブランドが在任中にホワイトハウスのブルー・ルームで結婚式を執り行いました。これはホワイトハウスでの公式な結婚式として史上唯一の例であり、多くの来賓が招かれました。クリーブランドは当時49歳、花嫁フランセス・フォルサムは21歳で、年齢差が話題となりました。大統領としての公私を融合させた出来事は国民の関心を集め、社交史上の逸話として語り継がれています。
1886年 グロバー・クリーブランド ホワイトハウス 結婚式
1901年

日本で桂太郎が第11代内閣総理大臣に就任し、第1次桂内閣が発足。

桂太郎が第11代内閣総理大臣に就任し、第1次桂内閣が発足しました。
1901年6月2日、明治時代の政治家・桂太郎が内閣総理大臣に就任し、第1次桂内閣を組織しました。桂内閣は日英同盟の強化や財政改革に取り組み、近代日本の国家運営に重要な役割を果たしました。桂自身は陸軍出身で強いリーダーシップを発揮し、対外政策では列強との協調を図りました。内閣は約1年半続き、その後の政局にも大きな影響を与えました。日本の政治史における礎となった政権です。
1901年 桂太郎 内閣総理大臣 第1次桂内閣
1924年

カルビン・クーリッジ米大統領が、アメリカ合衆国の領域内で生まれた全てのアメリカ先住民に市民権を与えるインディアン市民権法に署名し、法律が発効。

カルビン・クーリッジ大統領がインディアン市民権法に署名し、全てのアメリカ先住民に市民権が付与されました。 先住民の権利拡大を目的とした歴史的な法律です。
1924年6月2日、カルビン・クーリッジ大統領はインディアン市民権法に署名しました。 この法律により、アメリカ合衆国の領域内で生まれた全ての先住民が正式に市民権を取得。 それまで先住民は市民権取得に様々な制限があり、不平等な扱いを受けていました。 市民権付与により、選挙権や参政権、法の保護などが保証されるようになりました。 同法は先住民の社会的地位向上と権利拡大に重要な転換点となりました。 しかし、実際の組織化や制度上の障壁は残り、完全な平等実現には更なる課題が残されました。
1924年 カルビン・クーリッジ アメリカ合衆国 アメリカ先住民 市民権 インディアン市民権法 英語版
1946年

イタリアが国民投票で王制廃止を決定。10日に共和国宣言。

イタリアで国民投票が行われ、王制の廃止と共和制への移行が決定しました。
1946年6月2日、イタリアで王制の存廃を問う国民投票が実施されました。 共和制への移行に賛成票が多数を占め、王制廃止が決定。 6月10日には正式にイタリア共和国が宣言され、ウンベルト2世は退位し国外へ退去。 これにより、1861年の統一王国成立以来続いた王制が終了しました。 戦後の政治体制再編において重要な節目となりました。
1946年 イタリア 国民投票
1950年

連合国軍最高司令官総司令部と日本国政府は、東京都内の集会、デモを同年6月5日まで禁止(6月5日には当面禁止と発表)した。

GHQと日本政府が東京都内の集会・デモを一時禁止する措置を実施しました。
1950年6月2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と日本政府は東京都内の集会・デモを禁止すると発表しました。 これは朝鮮戦争勃発直後の治安維持を目的とした措置とされています。 当初の禁止期間は6月5日までとされ、その後も同様の制限が一時的に継続されました。 占領下の政治活動統制の一環であり、労働運動や政治デモへの規制が強化されました。 この措置は日本国内の政治的自由と占領当局の権限問題をめぐる議論を呼び起こしました。
1950年 連合国軍最高司令官総司令部 東京都
1953年

イギリス女王エリザベス2世の戴冠式を挙行。

イギリス女王エリザベス2世の戴冠式がウェストミンスター寺院で行われました。
1953年6月2日、ロンドンのウェストミンスター寺院でエリザベス2世の戴冠式が挙行されました。 わずか27歳での戴冠であり、イギリス史上最も若い女王の一人です。 式典はテレビ中継され、初の大規模な生中継王室行事となりました。 世界中から各国王室関係者や政府要人が参列し、華やかな儀式が展開されました。 国民の熱狂的な歓迎と祝賀ムードの中、エリザベス2世の新たな治世が始まりました。
1953年 イギリス エリザベス2世の戴冠式
1954年

参議院が「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を全会一致で可決。

参議院が自衛隊の海外派遣を行わないことを決議しました。
1954年6月2日、参議院本会議で「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」が全会一致で可決されました。 これは自衛隊設立後、初めて海外派遣に対する明確な方針を示した重要な決議です。 冷戦下の国際情勢を背景に、憲法第9条との関係が注目されました。 政府は実質的に自衛隊を国内防衛に限定する立場を確認しました。 この決議は平和主義を掲げる日本の安全保障政策の基礎となりました。
1954年 参議院 自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議
1959年

第5回参議院議員通常選挙。

第5回参議院議員通常選挙が実施されました。
1959年6月2日、第5回参議院議員通常選挙が行われました。 自由民主党が引き続き多数を維持し、政権与党としての地位を固めました。 野党の日本社会党や日本民主党も議席を争いましたが、与党優位の結果となりました。 投票率は戦後の政治参加の踊り場を示す数値となり、その後の改選に影響を及ぼしました。 選挙結果は与党の政権運営に肯定的評価を与える一方、野党にとっては課題を残しました。
1959年 第5回参議院議員通常選挙
1967年

西ベルリンを訪問中のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーに対する抗議行動が西ベルリン各地で発生。デモ参加中の大学生ベンノ・オーネゾルクが私服警官カール=ハインツ・クラスに射殺される。

西ベルリンでパフラヴィー皇帝訪問抗議中の学生が私服警官に射殺されました。
1967年6月2日、西ベルリンを訪問中のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーに対する抗議デモが発生しました。 デモに参加していた大学生ベンノ・オーネゾルクが私服警官カール=ハインツ・クラスに射殺されました。 この事件は西ドイツの学生運動や民主化運動の契機となり、政治的議論を巻き起こしました。 事件後、警察の暴力行為を批判する声が高まり、体制への不信感が広がりました。 数年後の1968年運動へとつながる重要な出来事とされています。
1967年 西ベルリン イラン モハンマド・レザー・パフラヴィー ベンノ・オーネゾルク カール=ハインツ・クラス
1979年

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が母国ポーランドを訪問。ローマ教皇による初の共産圏訪問となる。

1979年6月2日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が共産圏初訪問として母国ポーランドを歴訪しました。
1979年6月2日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がポーランド・ワルシャワに到着し、共産体制下の国を訪れた史上初の教皇となりました。 母国出身の教皇として、宗教弾圧下にあるカトリック信徒を支援し、人道と信仰の自由を訴えました。 訪問中、数百万人の信者が集まり、教会と国家の関係に一石を投じる象徴的な出来事となりました。 この歴史的行事は後の労働組合「連帯」の台頭を後押しし、東欧民主化運動の起点とも評価されています。 共産圏での宗教的アイデンティティが政治的変革へとつながる契機となりました。
1979年 ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世 ポーランド 共産圏