1892年
イングランドのサッカークラブ リヴァプールFC設立。
イングランドのサッカークラブ、リヴァプールFCが設立されました。
1892年6月3日、アンフィールドを本拠地とするリヴァプールFCが正式に創設されました。
創設の背景にはエヴァートンFCとの経営問題があり、新たなクラブ設立を選択しました。
初代クラブ会長はジョン・ホールで、クラブカラーの赤を採用しました。
リヴァプールは翌年にリーグに参戦し、徐々に国内外で成功を収める歴史が始まりました。
現在では欧州を代表する強豪クラブへと成長し、多数のタイトルを獲得しています。
1892年
リヴァプールFC
1932年
ニューヨーク・ヤンキースのルー・ゲーリックが、対アスレチックス戦で20世紀最初の1試合4本塁打を記録した。
1932年6月3日、ルー・ゲーリックがヤンキース対アスレチックス戦で1試合4本塁打を放ちました。
ニューヨーク・ヤンキースの一塁手ルー・ゲーリックは、1932年6月3日のフィラデルフィア・アスレチックス戦で四球を除くすべての打数で本塁打を記録しました。
これは20世紀初の1試合4本塁打達成であり、MLB史上でも名高い記録となりました。
試合はヤンキースの勝利に貢献し、ゲーリックの驚異的なパワーを世界に示しました。
この偉業は後のバイロン・ワードやマーク・マグワイアなど多くの選手に影響を与え、野球界の伝説となりました。
当時の野球ファンに衝撃を与え、メジャーリーグ史に残る伝説となりました。
ニューヨーク・ヤンキース
ルー・ゲーリック
アスレチックス
本塁打
1951年
日本ダービーで、脚の故障を押して出場したトキノミノルがコースレコードで快勝。同月20日に病死。
1951年6月3日、日本ダービーで脚部に故障を抱えながらトキノミノルがコースレコード勝利を飾った。
その後まもなく悲運の死。
トキノミノルは1951年の日本ダービーにおいて、故障のリスクを承知で出走が決定された名馬。
6月3日のレースで見事差し切り、2分25秒0のコースレコードを樹立した。
レース後の疲労が原因とされ、同月20日に衰弱のため死亡した。
その勝利は「孤高の名馬」と称えられ、日本競馬史に残る英雄的ドラマとなった。
トキノミノルの短くも輝かしい活躍は、多くの競馬ファンに深い感動を与えた。
1951年
日本ダービー
トキノミノル
1951年
NHK、後楽園球場から日本橋三越の電波展覧会へプロ野球の試合を実験的にテレビ中継。
NHKが後楽園球場で行われたプロ野球の試合を、日本橋三越の会場で初めて実験的にテレビ中継しました。この試みはスポーツ放送の先駆けとなりました。
1951年6月3日、NHKは後楽園球場で行われたプロ野球公式戦を、当時まだ珍しかったテレビ放送技術を用いて生中継しました。
中継は日本橋三越で開催された電波展覧会の会場にて視聴可能とし、来場者に公開実験として行われました。
この試みは日本のテレビ放送におけるスポーツ中継の先駆けであり、その後のテレビメディア発展に大きく寄与しました。
視聴者はテレビ画面を通じて野球の臨場感を味わい、メディアへの関心が高まりました。
この実験放送は技術的課題もありましたが、以降スポーツ中継が定着する契機となりました。
三越
プロ野球
1970年
黒い霧事件: オートレースと野球の八百長に関わったとして、中日の投手・小川健太郎が永久追放処分。
黒い霧事件で中日投手・小川健太郎がオートレースと野球の八百長関与により永久追放処分を受けた騒動です。
1970年6月3日、プロ野球やオートレースでの八百長疑惑をめぐる「黒い霧事件」により、中日ドラゴンズの投手・小川健太郎が永久追放処分を受けた。黒い霧事件は1969年頃から噂されていた試合操作問題が表面化したもので、多くの選手が疑惑の対象となった。小川のほかにも複数の選手が出場停止や厳重注意を受け、NPBの信頼は大きく揺らいだ。事件はスポーツ界の倫理や賭博問題への対策強化を促し、球団や協会の規律見直しにつながった。現在も日本プロ野球史に残る大きなスキャンダルとして語り継がれている。
1970年
黒い霧事件
八百長
小川健太郎
1980年
ハワイ出身の力士・高見山が日本に帰化。
ハワイ出身の力士・高見山が日本に帰化し、外国出身力士として初めて日本国籍を取得しました。
1980年6月3日、元オリンピック選手の経歴を持つハワイ出身力士ジェシー・クーアウルア(高見山)が日本に帰化し、高見山大五郎の名前で日本国籍を取得した。高見山は1964年に力士として入門し、1980年までに幕内優勝など数々の実績を重ねていた。帰化により日本人として相撲界での活動が容易になり、後進の外国人力士にも大きな影響を与えた。日本国籍取得は当時のスポーツ界で異例の出来事であり、多文化共生の先駆けとも評される。高見山はその後も指導者として活躍し、相撲界への貢献を続けた。
1980年
高見山
1983年
阪急ブレーブスの福本豊が939盗塁の世界新記録を樹立。
阪急ブレーブスの福本豊が通算939盗塁でプロ野球の世界新記録を樹立しました。
1983年6月3日、阪急ブレーブスの外野手・福本豊がプロ野球歴代最多となる通算939盗塁の新記録を達成した。これまでの記録はメジャーリーグのルー・ブロックが保持していた首位盗塁数を上回る快挙だった。福本は俊足と卓越した走塁技術で知られ、盗塁王タイトルを複数回獲得していた。この記録は日本プロ野球だけでなく世界のプロ野球史上でも注目され、その後も長らく破られなかった。福本の盗塁スタイルは後続の選手に多大な影響を与えた。
1983年
阪急ブレーブス
福本豊
盗塁
1983年
ヤクルトスワローズの大杉勝男が日本球界初の両リーグ1,000本安打を達成。
ヤクルトスワローズの大杉勝男が両リーグで通算1,000本安打を達成した日本球界初の記録です。
1983年6月3日、ヤクルトスワローズの外野手・大杉勝男がセ・リーグとパ・リーグ両リーグで通算1,000本安打を達成し、日本プロ野球史上初の快挙となった。大杉は当初パ・リーグの近鉄バファローズで活躍し、後にヤクルトへ移籍してセ・リーグでも安打を重ねた。両リーグでの安打記録を達成するにはリーグ間の移籍後も安定した打撃成績が求められ、大杉の幅広い適応力と打撃技術が光った。この記録は選手寿命の長さとコンスタントな活躍を示す証とされる。大杉の記録達成は両リーグ間の選手移籍の成功例としても語り継がれている。
ヤクルトスワローズ
大杉勝男
安打