寛元2年4月28日
執権北条経時により将軍藤原頼経が将軍職を譲らされ、嫡男で6歳の藤原頼嗣が将軍に就任。
寛元2年、執権北条経時が将軍藤原頼経を退かせ、僅か6歳の藤原頼嗣を将軍に擁立した政治劇。
鎌倉時代後期、幕府の実権を握る北条氏では、執権の采配が将軍職にも及んでいた。
寛元2年4月28日、前将軍藤原頼経は北条経時の圧力により職を退き、退任を余儀なくされた。
後任には頼経の嫡男でわずか6歳の藤原頼嗣が選ばれ、第4代征夷大将軍に就任した。
幼少の将軍任命により、名実ともに執権の強権支配が鮮明となった。
この人事は幕府内の権力構造を再確認し、以後の執権政治を象徴する事件とされた。
1244年
寛元
4月28日
北条経時
藤原頼経
藤原頼嗣
1305年
コンクラーヴェでクレメンス5世が教皇に選出。戴冠式は同年11月14日に行われた。
1305年、コンクラーヴェでクレメンス5世が教皇に選出され、アヴィニョン捕囚への道を開いた歴史的転機。
第196代教皇クレメンス5世(本名ベルナール・ド・ゴー)は6月5日のコンクラーヴェで選出された。
元はラングドック出身の枢機卿で、フランス王フィリップ4世の影響を強く受けていた。
同年11月14日にローマで戴冠式を挙行し、正式に教皇位を承認された。
彼の選出はフランス王権の教会への介入を象徴し、後のアヴィニョン捕囚(1309-1377年)へとつながった。
クレメンス5世在位中、教会財政の再建や十字軍再興の模索なども行われた。
1305年
コンクラーヴェ
クレメンス5世
11月14日
1806年
ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを王としてホラント王国が建国。
ナポレオンが弟ルイをホラント王に任じ、衛星国ホラント王国が建国された。
ナポレオン戦争下の1806年6月5日、ナポレオン・ボナパルトにより弟ルイがホラント王に即位し、新たにホラント王国が成立した。
フランス帝国の衛星国として設立されたこの王国は、北ネーデルラント地域を管轄した。
ルイはナポレオンの意向を受けつつも、オランダのインフラ整備や貿易振興を試みた。
王国は税制や司法制度の改革を行い、ナポレオン法典の一部を導入した。
しかし、イギリスとの対立や国内の独立志向により存立は短期間に終わり、1810年にはフランス帝国に併合された。
ルイ自身は流浪の後に1879年に没したが、この王国の設立はナポレオンのヨーロッパ再編政策を象徴する出来事となった。
1806年
ルイ・ボナパルト
ホラント王国
1849年
デンマークが新憲法の採択により立憲君主制に移行。
デンマークが新憲法を採択し、立憲君主制に移行した。
1849年6月5日、デンマーク国王クリスチャン8世の死後に制定された新憲法(ユラン憲法)が発布された。
この憲法により、絶対君主制から立憲君主制へと制度が大きく転換した。
国王の権限は制限され、議会(ランドスティング)と内閣が導入された。
また基本的人権の保障や法の下の平等が明記され、市民の政治参加が拡大した。
ユラン憲法はデンマーク国内で高い支持を受け、北欧諸国の憲政発展にも影響を与えた。
1849年
デンマーク
立憲君主制
1862年
阮朝越南国(ベトナム)とフランスとの間でサイゴン条約成立。
阮朝とフランスがサイゴン条約を締結し、南ベトナムの割譲や開港が決定した。
1862年6月5日、阮朝越南国(現ベトナム)とフランス第三共和政政府との間でサイゴン条約が成立した。
この条約により、コーチシナ(南ベトナム)の三州(ヴァンロング、バリック、ミトー)がフランス領として割譲された。
さらにフランス商人に対する開港権や領事裁判権が認められ、経済的影響力が拡大した。
条約締結はフランスの東南アジア進出の重要な一歩となり、その後の植民地化の基礎を築いた。
ベトナム国内では主権侵害への反発が強まり、抵抗運動の端緒にもなった。
1862年
阮朝
ベトナム
フランス
サイゴン条約
1866年
デンマーク戦争に伴いデンマークで憲法改正。
1866年、デンマークで憲法が改正され、上院選挙に財産要件が強化されました。立憲君主制の枠組み再編が行われた重要な政治改革です。
1866年6月5日、デンマーク王国は1849年制定の憲法を改正し、立法府下院と上院の選挙制度を見直しました。特に上院選挙では大土地所有者に有利な財産要件が導入され、国政への影響力が再配分されました。この改正は1864年のプロイセン・オーストリア連合との戦敗後の政治的再編を目的とした保守勢力の台頭によって推進されました。自由主義派と保守派の間で激しい論争が巻き起こり、国会や市民社会で憲法の理念や議会の役割が問われました。新憲法は近代デンマークの立憲君主制の基盤を固める一方で、民主的要素の制限ともなり、後の政治運動に影響を与えました。
1866年
デンマーク戦争
1915年
デンマークで女性参政権を認める憲法改正。
デンマークで女性に参政権が認められる憲法改正が行われました。男女平等の選挙権が実現した歴史的な一歩です。
1915年6月5日、デンマーク王国は憲法改正を実施し、25歳以上の女性に普通選挙権を付与しました。これにより、男性と同様に国会下院(ファルティング)選挙に参加できるようになり、真の男女平等選挙が実現しました。改正案は国民投票で承認され、男女両方の高い賛成を得ました。女性参政権獲得に向けた婦人運動家や社会改革者の長年の努力が実を結ぶ形となりました。法改正後、女性の政治参加は急速に進み、議会や地方自治体における女性議員の登用が増加しました。これはデンマークの民主主義を深化させる重要な転機と評価されています。
1915年
女性参政権
1920年
デンマークで国王の権限を縮小する憲法改正。
デンマークで国王の政治的権限を大幅に制限する憲法改正が行われました。
1920年6月5日、デンマーク王国は憲法改正を実施し、国王による閣僚任命や議会解散権を形式的なものとしました。実質的な立憲君主制を確立し、行政権は議会を通じて行使される仕組みに移行しました。改正は第一次世界大戦後の民主化潮流を反映したものであり、議会の役割が明確化されました。内閣は議会の信任に基づいて責任を負うこととなり、国王は象徴的な地位としての役割を強調されました。これによりデンマークは安定した議会制民主主義体制を築き、近代国家としての歩みを加速させました。
1920年
1929年
ラムゼイ・マクドナルドがイギリスの第58代首相に就任。
ラムゼイ・マクドナルドがイギリスの第58代首相に就任しました。労働党所属の初の首相として歴史的意義を持ちます。
1929年6月5日、ラムゼイ・マクドナルドはイギリス第58代首相に就任しました。彼は労働党から初めて首相に就く人物で、1924年の短期政権以来2度目の政権担当となりました。就任直後、世界的な大恐慌が勃発し、失業対策や財政均衡の難題に直面します。マクドナルドは公共事業を通じた景気刺激策を推進しつつ、党内外の意見調整に奔走しました。しかし1931年の緊縮政策導入が労働党内の大きな分裂を招く結果となります。彼の首相就任は労働党の政治的地位を確立し、英国の近代福祉国家構築への一歩とされています。
1929年
ラムゼイ・マクドナルド
1934年
東郷平八郎の国葬が執り行われる。
海軍元帥東郷平八郎の国葬が執り行われました。日露戦争の英雄を国として弔う式典です。
東郷平八郎(1848年-1934年)は日本海海戦で連合艦隊司令長官を務め、大勝利を導いた海軍元帥として国民的英雄となりました。1934年6月5日、東京・増上寺で盛大な国葬が行われ、天皇や政府要人、外国代表が参列しました。式典では海軍儀仗隊の敬礼や海軍音楽隊の演奏が行われ、艦旗が捧げられました。各地で追悼行事が催され、碑の建立や慰霊祭が実施されるなど、多くの市民が弔意を示しました。彼の死は昭和期の日本社会に大きな衝撃を与え、軍国主義的風潮を助長する象徴的出来事ともなりました。
1934年
東郷平八郎
国葬
1943年
日比谷公園で山本五十六の国葬。
連合艦隊司令長官・山本五十六元帥の戦死を受け、日本初の国葬が日比谷公園で執り行われた。
1943年6月5日、戦死した山本五十六元帥の国葬が東京・日比谷公園で盛大に行われました。
山本は日米開戦の立役者としても知られ、多くの参列者が国民的英雄の死を悼みました。
政府は軍人として初の国葬を実施し、戦意高揚と国民統合を図る狙いがありました。
会場には軍艦旗や弔旗が掲げられ、厳粛な式典が執り行われました。
この国葬は戦局悪化の中で日本の戦意を支える象徴的行事となりました。
1943年
山本五十六
1945年
ドイツを連合軍の軍政下に置くことが宣言される。(ベルリン宣言)
連合国がドイツ全土を軍政下に置くことを宣言した歴史的文書「ベルリン宣言」が公表された。
1945年6月5日、アメリカ・イギリス・ソ連(後にフランスも参加)の連合国はベルリン宣言を発表しました。
これによりドイツは国家主権を停止し、連合軍最高司令官の軍政下に置かれることが宣言されました。
ナチス体制の徹底的解体と戦争犯罪人の処罰、非ナチ化(デナツィ化)と民主化が基本方針として定められました。
ドイツ国民は敗戦責任を問われると同時に、戦後復興へ向けた新たな秩序づくりが求められました。
この軍政期は後のドイツ分裂と冷戦構造の形成に大きく影響を及ぼしました。
ドイツを連合軍の軍政下
ベルリン宣言