1846年

コンクラーヴェでジョバンニ・フェレッティが次期ローマ教皇に選出され、ピウス9世となる。

コンクラーヴェでジョヴァンニ・フェッティが教皇に選ばれ、ピウス9世が誕生しました。
1846年6月16日、コンクラーヴェでジョヴァンニ・マリア・マスターイ・フェレッティが次期教皇に選出されました。 彼はピウス9世を名乗り、当時47歳の比較的若い教皇として就任しました。 在位期間は史上最長を記録し、教義や教会組織の近代化に尽力しました。 国家統治権を巡るイタリア統一運動との対立など、教会と国家の関係に重大な影響を残しました。 カトリック教会史における重要な転換期を象徴する教皇の誕生です。
1846年 コンクラーヴェ ローマ教皇 ピウス9世
1858年

エイブラハム・リンカーンがイリノイ州スプリングフィールドで「分裂した家」演説を行う。

リンカーンが奴隷制度の分断を批判した有名な政治演説を行いました。
1858年6月16日、イリノイ州スプリングフィールドにてエイブラハム・リンカーン上院議員が「分裂した家(House Divided)」演説を行いました。 リンカーンは当時の奴隷制度を「家が分かれるように存続できない」と厳しく批判し、国の亀裂を指摘しました。 この演説は彼の名を広く知らしめ、後の大統領選出への足掛かりとなりました。 奴隷制廃止を巡る国論分裂の深刻さを象徴する言葉として、アメリカ史における名演説の一つとされています。 リンカーンの政治理念と公人としての立場を世界に印象づけた歴史的出来事です。
1858年 エイブラハム・リンカーン イリノイ州 「分裂した家」演説 英語版
1897年

アメリカ・ハワイ併合条約調印。

アメリカとハワイ王国が併合条約に調印し、併合への動きを加速させました。
1897年6月16日、アメリカ合衆国とハワイ王国代表がハワイ併合条約に調印しました。 この条約はハワイ王国をアメリカの領土とする枠組みを定め、王国の主権を徐々に失わせるものでした。 当時のアメリカ議会では条約承認を巡る賛否が大きく分かれ、最終的な併合は翌年にずれ込みました。 条約締結はアジア太平洋地域におけるアメリカの戦略的拠点獲得の一環とされています。 ハワイの歴史とアメリカ帝国主義の展開を象徴する重要な国際政治イベントです。
1897年 アメリカ ハワイ
1904年

フィンランド総督ニコライ・ボブリコフがオイゲン・シャウマンにより暗殺。翌日未明に死亡。

フィンランド総督ニコライ・ボブリコフが暗殺された事件です。
1904年6月16日、フィンランド総督ニコライ・ボブリコフはオイゲン・シャウマンに暗殺されました。 彼はロシア帝国の統治強化を目指し、フィンランド人の反感を買っていました。 暗殺後、ボブリコフは翌日未明に息を引き取り、この事件はフィンランド独立運動の象徴となりました。 シャウマンの行動は当時の国際社会にも衝撃を与え、フィンランド内部の対立が表面化しました。 ボブリコフの死はフィンランドにおけるロシア支配への抵抗を象徴する重要な歴史的転機とされています。
1904年 フィンランド ニコライ・ボブリコフ
1924年

中華民国広州で、中国国民党の孫文が黄埔軍官学校を設立。

孫文が中国国民党の黄埔軍官学校を設立した日です。
1924年6月16日、孫文率いる中国国民党は広州に黄埔軍官学校を設立しました。 この学校は軍事エリートの養成を目的とし、後の国共合作の象徴となります。 蔣介石が初代校長に就任し、数多くの将校を輩出しました。 教育方針には近代軍事理論とナショナリズムが取り入れられ、中国近代史に大きな影響を与えました。 黄埔軍官学校はその後の中華民国軍や中国共産党にも大きな足跡を残しました。
1924年 中華民国 広州 中国国民党 孫文 黄埔軍官学校
1932年

第一次世界大戦のドイツの賠償についてのローザンヌ会議が開幕(7月9日まで)。事実上の賠償金支払い停止が決定される。

ドイツ賠償問題を協議するローザンヌ会議が始まりました。
1932年6月16日、第一次世界大戦の賠償問題を協議するローザンヌ会議がスイスで開幕しました。 会議には英仏伊日などが参加し、ドイツの賠償金支払い停止が事実上決定されます。 世界恐慌の影響で財政難に陥ったドイツ救済が議題の中心となりました。 会議は7月9日まで続き、ヴェルサイユ体制の見直しが行われました。 この成果は後の国際関係にも大きな影響を与えました。
1932年 第一次世界大戦 ドイツ 賠償 ローザンヌ会議 7月9日
1940年

第二次世界大戦: フィリップ・ペタンがヴィシー・フランスの首相に就任。

ヴィシー・フランスの首相にフィリップ・ペタンが就任しました。
1940年6月16日、第二次世界大戦下のフランスでフィリップ・ペタンがヴィシー政権の首相に就任しました。 同日、国民議会はペタンに全権を委譲し、マルシャル政権が成立します。 ペタンは対独協調路線を採り、対独降伏と体制維持を図りました。 この政権はドイツ占領下のフランスを象徴し、後の歴史に賛否両論を残します。 ペタン政権の成立は、フランスの戦時史における重要な分岐点となりました。
1940年 第二次世界大戦 フィリップ・ペタン ヴィシー・フランス
1955年

「離婚法」を制定してカトリック教会と対立したアルゼンチンのフアン・ペロン大統領の集会に海軍機が爆弾を投下。

ペロン大統領の集会に海軍機が爆弾を投下しました。
1955年6月16日、アルゼンチンでフアン・ペロン大統領の支持集会に海軍機が爆弾を投下しました。 ペロンは離婚法制定でカトリック教会と対立しており、軍部内の反発が高まっていました。 爆撃により死傷者が出て治安は一時混乱状態となりました。 この事件はペロン政権への反乱の前兆とされ、同年9月のクーデターへ繋がる要因の一つとなります。 アルゼンチン政治史の不安定期を象徴する出来事です。
1955年 カトリック教会 アルゼンチン フアン・ペロン
1958年

ハンガリー動乱時にソ連侵攻に抵抗したハンガリーの元首相ナジ・イムレらが、KGBの秘密裁判により処刑される。

ハンガリー動乱でソ連への抵抗を指導したナジ・イムレ元首相らが、1958年にKGBによる秘密裁判で処刑されました。
1956年のハンガリー動乱はソ連の支配に対する市民蜂起として知られています。動乱の指導者であったナジ・イムレ元首相は、自由化を志向した改革派として支持を集めました。動乱鎮圧後、彼は投獄されたまま長期間収監されました。1958年6月16日、KGBによる秘密裁判が行われ、ナジらは反逆罪で有罪判決を受け処刑されました。この事件は冷戦下の東欧諸国におけるソ連の弾圧を象徴するものとなりました。
1958年 ハンガリー動乱 ハンガリー ナジ・イムレ KGB
1961年

ソ連のバレエダンサー・ルドルフ・ヌレエフが海外公演中にパリのル・ブルジェ空港で亡命。

ソ連の名バレエダンサー、ルドルフ・ヌレエフが1961年にパリでの公演を機に亡命しました。
ルドルフ・ヌレエフは世界的に著名なソ連のバレエダンサーであり、1961年6月16日、パリ郊外のル・ブルジェ空港で公演後に突然ソ連からの脱出を決意しました。彼はKGBの監視を逃れ、フランス当局に亡命を申請しました。西側陣営に渡ったヌレエフは、パリ・オペラ座やロンドン・ロイヤル・バレエ団などで活躍し、バレエ界に革新をもたらしました。彼の亡命は冷戦期の象徴的な事件とされ、西側文化界への影響も大きかったと評価されています。ヌレエフはその後も第一線で活躍し続け、バレエ界の伝説的存在となりました。
1961年 ルドルフ・ヌレエフ パリ ル・ブルジェ空港
1972年

国連人間環境会議の最終日に人間環境宣言を採択。

1972年、ストックホルムで開かれた国連人間環境会議の最終日に『人間環境宣言』が採択されました。地球環境保護への国際的な取り組みが本格的に始まるきっかけとなりました。
1972年6月5日から16日にスウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議は、国連加盟113か国が参加した初の環境会議です。最終日に26の原則からなる『人間環境宣言』が満場一致で採択されました。宣言では国家主権の下で環境保護を図ることや世代間の公平性が強調されました。この宣言は環境問題への国際的な枠組みを初めて示したもので、のちに国連環境計画(UNEP)の設立へとつながりました。今日の地球環境保全運動の礎となった歴史的な一歩といえます。
1972年 国連人間環境会議 人間環境宣言
1972年

ドイツ赤軍の創設者の1人・ウルリケ・マインホフが逮捕される。

ドイツ赤軍 (RAF) の主要メンバーであったウルリケ・マインホフが逮捕されました。過激派運動の象徴的存在の拘束は西ドイツ政府に大きな衝撃を与えました。
ウルリケ・マインホフはかつて新聞記者だったが1968年に左翼過激派グループ『ドイツ赤軍 (RAF)』を共同設立しました。彼女は西ドイツ政府や資本主義体制を批判し、武装闘争を展開。1972年6月16日、マンハイム付近で警察に逮捕されました。逮捕後、連邦憲法擁護庁(BfV)による大規模な捜査と襲撃が行われ、RAFに対する取締りが強化されました。マインホフの拘束はヨーロッパ全土で注目を集め、過激派問題への対応の在り方に議論を呼びました。
ドイツ赤軍 ウルリケ・マインホフ