元熙2年/永初元年6月15日

東晋の恭帝が劉裕(武帝)に禅譲。東晋が滅亡し宋(南朝宋)が建国。

東晋最後の皇帝恭帝が劉裕に禅譲し、南朝宋が建国された政変。 中国南朝時代の幕開けとなった歴史的事件。
東晋末期、内紛に揺れる朝廷で将軍の劉裕が実権を掌握していた。 恭帝は政務を放棄し、7月11日に禅譲して退位を余儀なくされた。 これにより東晋は滅亡し、劉裕が南朝宋を建国して建康(現在の南京)に都を置いた。 南北朝時代の始まりを告げ、以降の南朝宋は江南地域を中心に繁栄を築いていく。 北朝勢力との対立が続く中国史の重要な転換点となった。
420年 元熙 永初 6月15日 東晋 恭帝 劉裕 禅譲 南朝宋
1302年

金拍車の戦い(コルトレイクの戦い)。

フランドル地方で行われた騎士軍団と民兵の戦い。 民兵が優勢を示した中世の転換点。
ブルゴーニュ公国とフランドル都市同盟が対立し、コルトレイク平野で会戦が発生した。 フィリップ4世率いるフランス騎士中心の軍は、機動力に勝る民兵に敗北を喫した。 『金拍車の戦い』と称されるこの戦勝は、フランドル軍の結束力と歩兵の有効性を証明した。 貴族騎士の主導する戦術の限界が露呈し、ヨーロッパ中世軍事構造に変革を促した。 都市民兵の台頭を象徴する歴史的事件として今日まで語り継がれる。
1302年 金拍車の戦い
永楽3年6月15日

明の武将鄭和が第1次航海に出発。2年後にカリカット(コーリコード)へと到達。

明朝の大航海時代を切り開いた鄭和の第1次遠征出発。 世界との交流拡大の始まり。
永楽帝の命を受けた宦官の鄭和は、巨艦を擁する艦隊を率いて航海に出発した。 目的は東南アジアからインド洋地域との貿易および国交樹立であった。 当時世界最大級の船団には数万人が乗組み、香料や絹などを交易品として携行した。 2年後、インド西岸のカリカット(コーリコード)に到達し香辛料貿易を開拓した。 この遠征は中国の海上勢力拡大と国際交流の礎を築いた画期的な出来事である。
1405年 永楽 6月15日 鄭和 コーリコード
1789年

フランス革命: マリー・アントワネットらが、民衆に人気のあった財務大臣ジャック・ネッケルを罷免。バスティーユ襲撃の引き金となる。

ネッケル罷免がパリ民衆の反発を招いた。 バスティーユ襲撃の引き金となった事件。
ルイ16世の財政改革を担っていたジャック・ネッケルは民衆の支持を集める存在だった。 しかし王妃マリー・アントワネットら側近の反対を受け、7月11日に罷免が決定された。 この措置がパリ市民の怒りを爆発させ、バスティーユ襲撃への動きを加速させた。 ネッケル解任は絶対王政批判の象徴的事件となり、革命勢力にさらなる勢いを与えた。 フランス革命の転換点として歴史に刻まれている。
1789年 フランス革命 マリー・アントワネット ジャック・ネッケル バスティーユ襲撃
1792年

フランス革命戦争: 立法議会が「祖国は危機にあり!」との宣言を発する。

立法議会が国家非常事態を宣言。 共和制フランスの防衛体制を強化。
革命期の混乱の中、隣国諸侯による干渉の危機が高まっていた。 7月11日、立法議会は『祖国は危機にあり!』と宣言し、国民兵役や軍需強化を呼びかけた。 市民や農民に愛国心を喚起し、義勇兵の募兵や製鉄所増設など体制づくりを推進。 この宣言は共和制防衛の象徴となり、国民皆兵の理念を広く浸透させた。 その後の戦争でフランス軍は連勝を重ね、革命政権を安定させる原動力となった。
1792年 フランス革命戦争 祖国は危機にあり!
1798年

擬似戦争勃発を受け、アメリカ独立戦争時にあった大陸海兵隊がアメリカ海兵隊として再創設。

擬似戦争に備え米海兵隊を再創設。 アメリカ海兵隊の原点となった軍事組織。
1798年、米仏間の海上衝突が『擬似戦争』と呼ばれ激化していた。 これを受け、大陸会議で解散されていた大陸海兵隊が新たに創設された。 アレクサンダー・ハミルトンらは海軍と連携する精鋭部隊の必要性を訴えた。 再創設部隊は艦砲戦や上陸作戦の訓練を行い、海上対仏戦準備を整えた。 この制度が現在のアメリカ海兵隊の礎となり、伝統を受け継いでいる。
1798年 擬似戦争 アメリカ独立戦争 大陸海兵隊 アメリカ海兵隊
1801年

フランスの天文学者ジャン=ルイ・ポンが初めて彗星を発見。以降、生涯に彗星発見者の中で最多の37個の彗星を発見する。

ジャン=ルイ・ポンが初の彗星を発見。 以後37個の彗星を観測した名探査者。
フランス天文学者ポンは各地の観測記録を綿密に比較していた。 7月11日、彼は初めて彗星を発見し、学会にその存在を報告した。 その後の数十年間で計37個もの彗星を発見し、個人記録として最多を誇った。 彼の発見は軌道解析技術の進歩を促し、彗星研究の発展に大きく寄与した。 ポンは『彗星王』と称えられ、後世の天文学者に多大な影響を与えた。
1801年 ジャン=ルイ・ポン 彗星
1804年

アメリカ合衆国副大統領アーロン・バーと同財務長官アレクサンダー・ハミルトンが決闘を行う。ハミルトンは翌日死亡。

アーロン・バーとアレクサンダー・ハミルトンが決闘。 ハミルトンは翌日死亡。
当時副大統領のバーと元財務長官ハミルトンは政治的対立が深刻化していた。 7月11日、彼らはニューヨーク近郊で銃による決闘に臨んだ。 ハミルトンは胸部を負傷し、翌日に致命傷で息を引き取ったと報じられた。 この事件は若い共和国の政治文化と決闘慣習の危険性を象徴する。 バーは政治生命を失い、その後のアメリカ史に暗い影を落とした。
1804年 アメリカ合衆国副大統領 アーロン・バー 同財務長官 アレクサンダー・ハミルトン 決闘
1833年

オーストラリアでアボリジニ・ヌンガー族の戦士イェーガンが、彼の首にかけられた賞金狙いの白人少年により射殺される。

オーストラリア先住民の戦士イェーガンが射殺される。 植民地支配下での衝突の一幕。
ヌンガー族の若き戦士イェーガンは開拓者から抵抗の象徴と見なされていた。 賞金目当てで追跡した白人少年が7月11日にイェーガンを射殺した。 遺体は切り刻まれ、その一部が異国へ持ち去られたと伝えられる。 植民地時代の先住民族と入植者の暴力的対立を象徴する悲劇的事件である。 後のオーストラリア史における先住民虐待の教訓として記憶されている。
1833年 オーストラリア アボリジニ ヌンガー族 英語版 イェーガン
咸豊4年6月17日

琉米修好条約が締結される。

琉米修好条約が締結される。 琉球王国の国際関係拡大の一歩。
咸豊4年6月17日(1854年7月11日)、琉球王国とアメリカ合衆国が友好条約を締結した。 漂流民救助や通商、領事裁判権などを定めた画期的な協定であった。 琉球は独立国として初めて西洋列強と正式な外交関係を樹立した。 同時期の日本開国と並び、東アジアにおける近代国際秩序の変化を象徴する。 後の琉米・清国条約締結や地域の政治構造に大きな影響を与えた。
1854年 咸豊 6月17日 琉米修好条約
1864年

南北戦争: スティーブンス砦の戦い。

1864年7月11日、南北戦争中の重要な戦闘の一つであるスティーブンス砦の戦いが起こりました。南軍はワシントンD.C.への直接攻撃を狙い、砦の占領を試みました。砦の守備隊は急造部隊や市民兵で構成されていました。
1864年7月11日、南北戦争中の重要な戦闘の一つであるスティーブンス砦の戦いが行われました。南軍はジェファーソン・デイヴィスの命令のもと首都ワシントンD.C.を攻撃すべく砦を攻め立てました。急造の守備隊は市民兵や外科兵から構成され、激しい銃撃戦と白兵戦を展開。北軍は砦を死守し、南軍の進軍を食い止めることに成功しました。この戦闘は北軍による首都防衛の象徴的勝利とされ、戦争末期におけるモラル向上に寄与しました。
1864年 南北戦争 スティーブンス砦の戦い
1882年

イギリス地中海艦隊がアレクサンドリア砲撃を開始。

1882年7月11日、イギリス地中海艦隊がエジプトのアレクサンドリア港を砲撃し始めました。エジプト占領の動きの前触れとなった歴史的事件です。
1882年7月11日、イギリス地中海艦隊はエジプトのアレクサンドリア港に対し集中砲撃を開始しました。砲艦や装甲艦から放たれた砲弾が港湾施設や周辺市街を直撃し、甚大な被害をもたらしました。現地では多数の民間人にも死傷者が出て国際的な非難が高まりました。この攻撃はエジプト在留のオスマン帝国支配下の政府を弱体化させ、イギリスの勢力拡大を狙ったものとされています。最終的にイギリス軍はアレクサンドリアを占領し、その後のエジプト保護国化への布石となりました。
1882年 イギリス 地中海艦隊 アレクサンドリア砲撃