180年

北アフリカのスキッリウムでキリスト教徒20人が殉教。

180年、北アフリカのスキッリウムで20人のキリスト教徒が殉教。 初期キリスト教の試練を象徴する出来事。
紀元180年、ローマ帝国支配下の北アフリカにあるスキッリウムで20人のキリスト教徒が処刑されたと伝えられています。 当時のキリスト教は禁止されており、信仰を棄てなかった信者たちは厳しい弾圧を受けました。 殉教者たちは異教徒への改宗を拒んだため捕らえられ、拷問の末に処刑されたとされます。 この事件は「スキッリウムの殉教者」として後世の教会史にも記録されました。 現在も北アフリカ各地で殉教者の追悼が行われ、初期キリスト教の歴史を物語る遺跡として注目されています。
180年 スキッリウム 英語版 キリスト教
用明天皇2年6月7日

蘇我馬子が穴穂部皇子を暗殺。

587年、蘇我馬子が穴穂部皇子を暗殺し実権を掌握。 飛鳥時代の豪族間争いを示す事件。
用明天皇2年6月7日(西暦587年7月17日)、蘇我馬子が穴穂部皇子を襲撃・暗殺しました。 蘇我氏は飛鳥時代の有力豪族で、皇位継承に強い影響力を持っていました。 この暗殺により蘇我馬子は政治的実権を一層強化し、蘇我氏支配の基盤を固めました。 事件は『日本書紀』にも記述され、当時の王権と豪族勢力の対立構造を象徴しています。 後の物部氏との抗争や仏教公伝を巡る動きにも大きな影響を与えました。
587年 用明天皇 6月7日 蘇我馬子 穴穂部皇子
皇極天皇4年6月19日

孝徳天皇らが群臣を大槻の樹下に集めて忠誠を誓わせる。(『日本書紀』による)

645年、孝徳天皇らが大槻の樹下で群臣に忠誠を誓わせた。 『日本書紀』に記された政権強化の儀式。
皇極天皇4年6月19日(西暦645年7月17日)、『日本書紀』によると孝徳天皇と有力な群臣が大槻の樹下に集まりました。 この場で皇位と政権運営への忠誠を群臣に誓わせることで、中央集権的な統治体制の確立が図られました。 大化の改新前夜とされるこの儀式は、蘇我氏から天皇への権力移行を象徴します。 樹下の盟と呼ばれるこの行為は、日本古代の国家形成過程を理解する上で重要な史料となっています。 後の律令国家体制構築への布石として評価される歴史的な出来事です。
645年 皇極天皇 6月19日 孝徳天皇 日本書紀
1054年

ローマ王ハインリヒ3世の息子ハインリヒがハインリヒ4世としてローマ王に就任した。

1054年、ハインリヒ4世がローマ王に即位。 神聖ローマ帝国の王権に新たな世代が登場。
1054年7月17日、ローマ王ハインリヒ3世の息子がハインリヒ4世としてローマ王位を継承しました。 若年での即位は摂政や教皇との権力関係に影響を及ぼし、後の叙任権闘争の遠因となります。 ハインリヒ4世は後に神聖ローマ皇帝としても戴冠し、教皇との対立を深めました。 彼の治世は皇帝権と教会権の衝突が顕在化した時代として知られます。 即位は中世ヨーロッパの政治構造を理解する上で重要な契機となりました。
1054年 ローマ王ハインリヒ3世 ハインリヒ ローマ王
元弘3年/正慶2年6月5日

配流されていた隠岐島から脱出した後醍醐天皇が京に到着。

1333年、後醍醐天皇が隠岐島から脱出し京へ帰還。 建武の新政への転機となった劇的な帰還。
元弘3年/正慶2年6月5日(西暦1333年7月17日)、配流中の後醍醐天皇は隠岐島を密かに脱出しました。 その後、名和氏ら地元武士の協力を得て船で本州へ渡り、京に到着します。 鎌倉幕府打倒を掲げた後醍醐天皇の帰還は、全国の反幕府勢力に大きな勇気を与えました。 この帰還に続く鎌倉幕府崩壊と建武の新政は、南北朝時代の序章となります。 中世日本の政権交代を象徴する重要な歴史的瞬間です。
1333年 元弘 正慶 6月5日 隠岐島 後醍醐天皇
建文4年6月17日

靖難の変で勝利した燕王朱棣(永楽帝)が明の皇帝に即位。

1402年、燕王朱棣が明の永楽帝として即位。 靖難の変を経て権力を掌握。
建文4年6月17日(西暦1402年7月17日)、靖難の変で勝利した燕王朱棣が帝位に就きました。 燕王朱棣は先帝による権力集中策に反旗を翻し、勢力を拡大しました。 彼は永楽帝と号し、首都を南京から北京へ遷都するなど大規模な改革を実施しました。 永楽帝治世下では『永楽大典』の編纂や鄭和の大航海など文化・外交事業が活発化しました。 明朝を最盛期に導いた重要な転換点とされています。
1402年 建文 6月17日 靖難の変 永楽帝
1429年

フランス王シャルル7世がランスで戴冠。

1429年、シャルル7世がランスで戴冠。 ジャンヌ・ダルクの活躍に彩られた戴冠式。
1429年7月17日、シャルル7世は伝統的な戴冠地ランス大聖堂で即位式を挙行しました。 百年戦争の危機的状況下、戴冠は王位正統性の象徴として重要でした。 戴冠にはジャンヌ・ダルクの軍事的勝利が大きく寄与し、王権再建の契機となります。 シャルル7世は戴冠後、王権強化と国内統治の再編を進めていきました。 この儀式はフランス王権復興の重要な一歩と見なされています。
1429年 シャルル7世 ランス
1453年

百年戦争: カスティヨンの戦い。フランスが勝利。

1453年、百年戦争最後の戦い、カスティヨンの戦いが行われる。 フランス軍が決定的勝利を収めた。
1453年7月17日、百年戦争の最終決戦となるカスティヨンの戦いが開戦しました。 フランス軍は砲兵隊を効果的に使用し、イングランド軍を包囲・撃破しました。 この勝利によりイングランドのフランス支配はほぼ消滅し、戦争は終結へと向かいます。 戦いは中世における火砲戦術の重要性を示す転機とも評価されます。 百年戦争はこの年に正式に終結し、フランス王権の再興が確固たるものとなりました。
1453年 百年戦争 カスティヨンの戦い
長享2年6月9日

加賀一向一揆で、加賀国の守護の富樫政親が殺害される。

1488年、加賀一向一揆で守護富樫政親が殺害。 一向一揆勢力の急速な台頭を示す事件。
長享2年6月9日(西暦1488年7月17日)、加賀一向一揆の蜂起により守護富樫政親が討たれました。 一向一揆は浄土真宗門徒を中心とした武装蜂起で、守護勢力に挑戦する動きでした。 政親の死は一揆勢力の支配力を加賀一国に確立させる契機となります。 この事件以降、加賀は一向宗寺社が実質的な支配者となり、特異な自治形態を形成しました。 地方宗教勢力と武士との複雑な関係を象徴する歴史的事例です。
1488年 長享 6月9日 加賀一向一揆 加賀国 守護 富樫政親
天正17年6月5日

摺上原の戦いが行われる。

1589年、東北地方で摺上原の戦いが行われる。 伊達政宗勢と蘆名氏の軍勢が激突。
天正17年6月5日(西暦1589年7月17日)、伊達政宗と蘆名氏の間で摺上原の戦いが起こりました。 伊達政宗は東北随一の勢力拡大を目指し、蘆名領への侵攻を進めていました。 両軍の激しい衝突となり、政宗軍が勝利を収めて戦域を拡大します。 この勝利により伊達氏の東北地方での地位は一層強固となり、戦国大名としての評価を高めました。 地域の勢力図を塗り替えた戦国期の重要な合戦の一つです。
1589年 天正 6月5日 摺上原の戦い
元和6年6月18日

徳川秀忠の五女・和子が後水尾天皇の女御として入内。

1620年、徳川秀忠の五女・和子が後水尾天皇の女御に入り、将軍家と朝廷の結びつきが強化されました。
徳川秀忠の五女・和子(のちの於和津)が後水尾天皇の女御として入内した出来事です。将軍家の娘が正式に宮中に迎えられることで、江戸幕府と朝廷の関係強化が図られました。女御は天皇の正妃に次ぐ位にあたり、宮廷儀礼でも重要な役割を担います。この婚姻は幕府の政治的立場を安定させる狙いがありました。
1620年 元和 6月18日 徳川秀忠 和子 後水尾天皇 女御
1717年

テムズ川でのイギリス国王ジョージ1世の舟遊びで、ヘンデルの『水上の音楽』が初演。

1717年、テムズ川上での催しでヘンデルの『水上の音楽』が初演され、バロック音楽の金字塔となりました。
イギリス国王ジョージ1世の船上祝賀行事のために作曲された管弦楽組曲『水上の音楽』が、テムズ川上で初めて演奏されました。風景に響く旋律と豪華な編成が市民の注目を集め、その後も宮廷音楽や宗教音楽に大きな影響を与えました。ヘンデルの代表作の一つとして今なお世界中で演奏され続けています。
1717年 テムズ川 ジョージ1世 ヘンデル 水上の音楽