寛平9年7月3日
敦仁親王が宇多天皇から譲位され、醍醐天皇として践祚。
897年、宇多天皇が弟の敦仁親王に譲位し、敦仁親王が醍醐天皇として即位しました。
寛平9年7月3日(陽暦で897年8月4日)、宇多天皇は退位し、皇太子だった敦仁親王が践祚しました。
この譲位により、敦仁親王は醍醐天皇として即位し、朝廷の権力構造に影響を与えました。
醍醐天皇は後に延喜の治と呼ばれる治世を行い、日本文化の発展や律令制度の整備を推進しました。
この践祚は、親政への意志表明とされ、律令体制下での理想の天皇像にもつながっています。
以降の歴史において醍醐天皇の治世は文化的黄金期と評価されることが多いです。
897年
寛平
7月3日
宇多天皇
醍醐天皇
践祚
天正18年7月5日
北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城。小田原征伐完了により秀吉の天下統一が完成。
1590年、小田原征伐で北条氏直が降伏し、豊臣秀吉による天下統一が完成しました。
天正18年7月5日(1590年8月4日)、豊臣秀吉の軍勢は小田原城を包囲し、北条氏直は無血降伏しました。
同日に開城した小田原城の開城は、北条氏による関東支配の終焉を意味しました。
これにより、豊臣政権は全国的な支配を確立し、実質的な天下統一を達成しました。
秀吉は領国を再編成し、大名に検地や刀狩などの政策を通じて中央集権体制を強化しました。
小田原征伐は戦国時代終焉の象徴として、近世日本の安定へとつながる歴史的事件です。
1590年
天正
7月5日
北条氏直
豊臣秀吉
小田原城
小田原征伐
天下統一
寛永16年7月5日
第五次鎖国令発布。江戸幕府による貿易管理が完成。
1639年、江戸幕府は第五次鎖国令を発布し、貿易管理体制を完成させました。
寛永16年7月5日(1639年8月4日)、江戸幕府はオランダ商館を長崎の出島に限定し、他国との直接貿易を禁じる第五次鎖国令を公布しました。
これにより、国交を許可されたオランダと中国以外の欧州諸国の貿易がすべて遮断されました。
幕府はこの政策でキリスト教の布教抑制を図り、海外情報の統制を強化しました。
以降約200年にわたり日本は限定的な貿易関係にとどまり、独自の文化と経済圏が発展しました。
鎖国体制は日本の平和維持と国内統治に大きく寄与しましたが、近代化の遅れも招いたとされています。
1639年
寛永
7月5日
鎖国令
1789年
フランス革命: 国民議会がアンシャン・レジームの廃止を採択。
1789年、フランス革命の国民議会がアンシャン・レジームの廃止を採択しました。
1789年8月4日、フランス革命期の国民議会は貴族特権の廃止や教会財産の接収を含むアンシャン・レジームの全面的廃止を決議しました。
この決議により封建的身分制度が解体され、自由・平等の原則が掲げられました。
農民や都市民の抵抗運動の高まりを背景に、国民議会は旧体制の構造的特権を撤廃しました。
この「8月4日勅令」と呼ばれる一連の法令は、近代市民社会の基盤を築く歴史的転換点となりました。
フランス国内外に大きな影響を与え、欧州全体の政治思想にも衝撃を与えました。
1789年
フランス革命
国民議会
アンシャン・レジーム
1790年
アメリカ沿岸警備隊が設立される。
アメリカ沿岸警備隊の前身となる組織が設立された日。海上の治安維持と税関業務の歴史が始まります。
1790年8月4日、アメリカ財務省の法律により沿岸警備を目的とした Revenue-Marine(後の沿岸警備隊)が創設されました。
設立当初は小型帆船(カッター)10隻で、港湾や沿岸での関税徴収と密輸監視を主任務としていました。
アレクサンダー・ハミルトン財務長官の提案で、若い国家の財政を支える重要な機関として位置付けられました。
19世紀を通じて密輸取り締まりや救難活動にも従事し、その役割は徐々に拡大していきました。
1915年に沿岸警備隊(Coast Guard)と改称され、今日の米国海上安全保障と救助活動の礎が築かれました。
1790年
アメリカ沿岸警備隊
弘化元年6月21日
水野忠邦が江戸幕府の老中首座に返り咲く。
江戸幕府の老中首座に復帰し、天保改革への活動を再開した日。
1844年6月21日(弘化元年6月21日)、水野忠邦が老中首座に返り咲き、幕政の中心に復帰しました。
前回の老中時代には天保の飢饉や改革を経験し、幕府財政の立て直しを図りました。
返り咲きにより、水野は引き続き倹約を推進し、藩校改革や株仲間解散令などを実施しました。
一方で、藩主や豪商との対立を深め、改革の強硬姿勢が反発を招くこともありました。
最終的に天保改革は中断され、1845年に老中を退任しましたが、日本近世後期の幕政史に大きな影響を残しました。
1844年
弘化
6月21日
水野忠邦
江戸幕府
老中
1903年
ピウス10世がローマ教皇に選出される。
ピウス10世が教皇に選出され、新たなカトリック教皇時代が始まった日。
1903年8月4日、コンクラーベにおいて第254代ローマ教皇にジョヴァンニ・バッティスタ・ピオ・サルトが選出され、ピウス10世として即位しました。
ピウス10世は教会の伝統的権威とカトリック信仰の強化を重視し、近代主義運動に対して厳しく対処しました。
教理の明確化や教会法の整備を推進し、聖職者教育やミサ典礼の改革にも取り組みました。
また、貧困救済活動や教区司祭の補強を通じて信徒への支援を強化し、教会組織の近代化を図りました。
彼の教皇在位中に発布された教令は後世にも大きな影響を与えました。
1903年
ピウス10世
ローマ教皇
1936年
ギリシャ王国首相イオアニス・メタクサスが憲法の一時停止を宣言し、メタクサスによる独裁政権八月四日体制を開始。
ギリシャで八月四日体制が始まり、メタクサス独裁政権が樹立された日。
1936年8月4日、ギリシャ王国首相イオアニス・メタクサスが議会の承認なしに憲法を一時停止し、八月四日体制と呼ばれる独裁政権を開始しました。
メタクサス政権は共産主義や政治的反対派を厳しく弾圧し、「三つのS(安全、安全、秩序)」をスローガンに国内安定を掲げました。
政権発足後、全ての政党活動と労働組合は禁止され、言論統制や検閲が強化されました。
また、公共事業を推進して経済対策を図り、ナショナリズム的文化政策を通じて国民統合を図りました。
この体制は第二次世界大戦に入る1939年まで続き、ギリシャ現代史における独裁政治の一時代を象徴します。
1936年
ギリシャ王国
イオアニス・メタクサス
八月四日体制
1944年
第二次世界大戦: 小磯内閣が「国民総武装」を閣議決定。竹槍訓練などがはじまる。
1944年、小磯内閣が総力戦体制を強化するため国民総武装を閣議決定し、竹槍訓練などの国民動員が本格化しました。
第二次世界大戦末期の1944年8月4日、小磯国昭首相率いる内閣は国民総武装を閣議決定。
軍需生産の遅れと連合軍の進撃を受け、一般市民にも武器携行を義務付ける方針を採りました。
これにより竹槍訓練が全国で実施され、学校や町内会でも動員が行われました。
民間人の即席防衛組織は組織的訓練を欠き、多くの混乱を招きました。
この決定は戦時下の日本社会に大きな影響を与え、戦後も戦争責任の議論を呼び起こしました。
第二次世界大戦
小磯内閣
1947年
日本の最高裁判所が発足。
1947年、新憲法施行に伴い日本の最高裁判所が正式に発足し、司法の最高機関としての役割を担い始めました。
日本国憲法が施行された1947年5月3日に続き、同年8月4日には最高裁判所が発足しました。
最高裁判所は司法権の最高機関として憲法・法律の最終判断を行います。
構成は15名の裁判官で、そのうち1名が長官に任命されました。
司法の独立性を重視する新体制は、戦前の統制司法からの大きな転換点となりました。
以来、最高裁判所は国民の権利を守る最後の砦として多くの判例を築いてきました。
1947年
最高裁判所
1954年
パキスタン政府が「神聖なる大地に祝福あれ」を国歌に制定。
1954年、パキスタン政府が国家の象徴として『神聖なる大地に祝福あれ』を国歌に正式制定しました。
1954年8月4日、パキスタン政府はローレンス・I・スミス作曲、ハフィーズ・ジュルンドリー作詞の『神聖なる大地に祝福あれ』を国歌に制定。
歌詞はウルドゥー語で国家への忠誠と祝福を謳い、民族的統一の象徴とされます。
曲は宗教色を排除し、世俗国家としてのパキスタンのアイデンティティを反映しています。
以来、国家行事や式典で演奏・斉唱され、国民の結束を示す重要な要素となりました。
国歌の権利管理や公演手順は政府によって厳格に定められています。
1954年
パキスタン
神聖なる大地に祝福あれ
1965年
クック諸島がニュージーランドの自治領となる。
クック諸島がニュージーランドの自治領と認められ、自己統治権を獲得した。
1965年8月4日、南太平洋のクック諸島はニュージーランドの信託統治領から自治領となり、内政の大部分を自ら管理できる権限を付与された。これによりクック諸島議会は立法権を行使し、首相を首班とする政府を組織した。防衛と外交は引き続きニュージーランドが担当し、経済や社会インフラの整備支援を受ける二国間関係が構築された。この自治領ステータスは現在に至るまで維持され、独自の文化と政治体制が発展している。
1965年
クック諸島
ニュージーランド