1027年

ノルマンディー公リシャール3世の息子ロベールがロベール1世としてノルマンディー公に就任した。のちにロベール華麗公と称された。

1027年、リシャール3世の跡を継ぎロベール1世がノルマンディー公に即位し、後に「華麗公」と称された。
1027年、ノルマンディー公リシャール3世の死去に伴い、その息子ロベールが公位を継承した。 ロベール1世は後世「華麗公」と呼ばれ、宮廷文化の発展や領土統治の基礎を築いた。 即位後は近隣諸侯との同盟を強化し、海賊対策や防御施設の整備に重点を置いた。 また、フランス王国との関係調整を行い、ノルマンディーの独立性を維持し続けた。 彼の治世は中世ヨーロッパにおける封建制度の安定期と重なる。
1027年 ノルマンディー リシャール3世 ロベール
永享11年6月27日

二十一代集の最後の『新続古今和歌集』が完成。

室町時代に勅撰和歌集の最後を飾る『新続古今和歌集』が完成し、日本文学の節目となった。
永享11年(1439年)6月27日、室町幕府の許可を得て編纂された「新続古今和歌集」が完成した。 「二十一代集」の最終作として、新古今和歌集以来の和歌伝統を受け継ぎつつ、当代の感性を反映した作品が集められた。 編者には歌人・公家たちが参加し、後世の和歌研究に大きな影響を与えた。 書写本の制作には高い藝術性が求められ、装飾された料紙も注目を集めた。 この完成により、勅撰和歌集は全21集で一旦の完結を迎えた。
1439年 永享 6月27日 二十一代集 新続古今和歌集
1566年

オスマン・ハプスブルク戦争: スィゲトヴァール包囲戦が開始。

1566年、オスマン帝国軍がハンガリーの要衝シゲトヴァールに包囲戦を仕掛け、長期戦の幕が開けた。
オスマン・ハプスブルク戦争の一環として、1566年8月6日にスィゲトヴァール包囲戦が開始された。 オスマン帝国のスレイマン1世が大軍を率いて要塞都市を包囲し、陥落を狙った。 守備側は少数のハンガリー・クロアチア連合軍が指揮する防衛線を維持し、激戦を繰り広げた。 包囲は1ヶ月以上続き、守将イシュトヴァーン・タトーリらの奮戦が伝えられる。 この戦いは両軍の戦術と兵器の変遷を象徴し、後の中欧戦局に大きな影響を与えた。
1566年 スィゲトヴァール包囲戦
天正6年7月3日

上月城の戦い: 尼子勝久らが自刃し尼子氏が滅亡。

1578年、上月城の戦いで尼子氏当主尼子勝久らが自刃し、戦国大名尼子氏が滅亡した。
天正6年(1578年)7月3日、中国地方の拠点上月城で織田氏・毛利氏連合軍との攻防戦が行われた。 尼子勝久ら尼子氏の残党は籠城して奮戦したが、援軍の到着を待てず自刃を選択した。 これにより、室町幕府以降続いた尼子氏の勢力は完全に消滅し、地域の勢力図が大きく変動した。 戦いでは鉄砲戦術の活用が注目され、戦国時代後期の戦術変化を示す一例となった。 上月城は後に毛利氏の管理下に入り、中国地方支配の要所となった。
1578年 天正 7月3日 上月城の戦い 尼子勝久 尼子氏
天正13年7月11日

羽柴秀吉が近衛前久の猶子として関白の位に就く。

1585年、豊臣秀吉が近衛前久の猶子となって関白に就任し、朝廷の最高権力を掌握した。
天正13年(1585年)7月11日、羽柴(豊臣)秀吉は公家近衛前久の猶子となり、関白の宣下を受けて就任した。 この就任により、秀吉は朝廷の儀式と政務を統括する立場を得て、実質的に国内政治を掌握した。 関白就任後は豊臣政権の法制度整備や検地・刀狩を推進し、全国統一を加速させた。 また、朝廷儀礼への関与を強めることで、武門と公家社会の接点を強化した。 秀吉の関白在任は江戸時代まで続く幕府と朝廷の関係にも影響を及ぼした。
1585年 天正 7月11日 羽柴秀吉 近衛前久 猶子 関白
1623年

ウルバヌス8世がローマ教皇に選出される。

1623年ローマ教皇選挙において枢機卿バルトロメオ・ベンティヴェリオがウルバヌス8世として選出された。
1623年8月6日、バルトロメオ・ベンティヴェリオ枢機卿がローマ教皇に選出され、教皇ウルバヌス8世を名乗った。 ウルバヌス8世は教会の財政再建を進め、バロック芸術の庇護者としても名高い。 しかし、彼の在位中はガリレオ・ガリレイとの対立が深まり、科学と教義の摩擦を象徴した。 また、三十年戦争における教皇領の政治的立場を調整し、カトリック勢力の結集を図った。 その治世は1644年まで続き、教会史に大きな影響を残した。
1623年 ウルバヌス8世 ローマ教皇
1791年

ベルリンのブランデンブルク門が竣工。

1791年、プロイセン王国がベルリンの市門ブランデンブルク門を竣工させ、都市の象徴となった。
1791年8月6日、ベルリン中心部に建設が進められていたブランデンブルク門が完成した。 設計はカール・ゴットハルト・ラングハンス、古代アテネのアクロポリス門を模した新古典主義様式が特徴。 門上部には平和の女神ビクトリアが馬車を曳く「クアドリガ」が配置された。 ブランデンブルク門はその後ナポレオン占領や東西ベルリン分断期などを経て、ドイツ再統一の象徴となった。 現在も観光名所として多くの人を惹きつけている。
1791年 ベルリン ブランデンブルク門
1806年

フランツ2世が「神聖ローマ皇帝」の称号を自ら放棄し、神聖ローマ帝国が名実ともに解体。

1806年、フランツ2世が神聖ローマ皇帝位を放棄し、千年以上続いた帝国が正式に解体された。
1806年8月6日、神聖ローマ皇帝フランツ2世は神聖ローマ皇帝位を自ら退位し、帝国の解体を宣言した。 ナポレオン・ボナパルトの勢力拡大とライン同盟の結成を背景に、神聖ローマ帝国は存続の意義を失った。 これにより、962年にオットー1世が創設して以来約844年続いた帝国の歴史が幕を閉じた。 フランツ2世は代わってオーストリア皇帝フランツ1世として存続国家の再編を図った。 この出来事はヨーロッパの政治秩序を一新し、ナショナリズム台頭の契機となった。
1806年 フランツ2世 神聖ローマ帝国
1825年

ボリビアがスペインから独立。

1825年、南アメリカの旧植民地ボリビアがスペインから独立し、共和国としての歩みを始めた。
1825年8月6日、アンデス高原を中心とした旧スペイン副王領アルト・ペルーがボリビア共和国として独立を宣言した。 独立運動はシモン・ボリバルやアントニオ・ホセ・デ・スクレらの指導のもと進められ、議会で議定書が採択された。 新国家の名称は解放者ボリバルにちなみ「ボリビア」と名付けられた。 独立後は内政・外交の混乱期を迎えたものの、アンデス地域における国家形成の先駆けとなった。 現在のボリビアは多民族国家として独自の文化を発展させている。
1825年 ボリビア スペイン
明治2年6月29日

戊辰戦争の官軍側戦死者を祀る神社として東京招魂社(現靖国神社)が創建。

1869年、戊辰戦争戦没者を祀る神社として東京招魂社が創建され、後の靖国神社となった。
明治2年(1869年)6月29日(新暦8月6日)、政府は戊辰戦争で命を落とした官軍の戦没者を祀るため東京招魂社を創建した。 創建は西郷隆盛らの提言を受け、国家主導の祭祀制度創設の一環として行われた。 社殿は当初仮設であったが、明治天皇の行幸を経て次第に規模が拡大した。 後に「靖国神社」と改称され、国家と戦没者追悼の象徴的施設として位置づけられた。 その歴史は今日まで続き、国内外で様々な議論を呼ぶ場ともなっている。
1869年 明治 6月29日 戊辰戦争 神社 東京招魂社 靖国神社
1890年

ニューヨーク州のオーバーン刑務所でウィリアム・ケムラーに対し史上初の電気椅子による死刑が執行される。

アメリカで初めて電気椅子による死刑が行われた歴史的な出来事。
1890年8月6日、ニューヨーク州オーバーン刑務所でウィリアム・ケムラーに対し史上初の電気椅子による死刑が執行されました。 当時は絞首刑に代わるより人道的な処刑方法と期待されていました。 しかし電気の流れや機器の不備により処刑は数分間にわたり苦痛を伴うものとなりました。 この出来事はメディアでも大きく報じられ、死刑制度や技術的・倫理的問題に関する議論を喚起しました。 以後、多くの州で電気椅子が導入される契機となりました。
1890年 ニューヨーク州 ウィリアム・ケムラー 電気椅子 死刑
1896年

フランスがマダガスカルの植民地化を宣言。

フランスがマダガスカルを正式に植民地化した宣言を行った。
1896年8月6日、フランス政府はマダガスカルを自国の植民地とすることを宣言しました。 これによりマダガスカル王国はフランスの保護領から完全な植民地支配下に置かれることとなりました。 フランスはこの島の天然資源や農産物を本国市場に供給することを目的としていました。 地元住民はフランスの行政・教育制度の導入や土地収用などにより大きな影響を受けました。 この植民地化は20世紀半ばまで続き、マダガスカルの歴史に深い爪痕を残しました。
1896年 フランス マダガスカル 植民地