1220年

リフラの戦い : スウェーデン王国が北方十字軍遠征の際に獲得したエストニア・レーネ地方の守備を任されていたスウェーデン貴族カール・ドーヴが、現地部族の連合軍に敗北。これによりスウェーデンはエストニア地方への進出を断念した。

1220年8月8日、リフラの戦いでスウェーデン軍が現地部族連合軍に敗北し、エストニア進出を断念した。
リフラの戦いは1220年8月8日に現在のエストニア南西部レーネ地方で起きた。 北方十字軍の一環として、スウェーデン王国から派遣されたカール・ドーヴ率いる守備隊が現地部族連合軍と激突した。 部族連合軍は地形を生かした奇襲や包囲戦術を用いて優勢に立ち、スウェーデン軍は大きな損害を受けた。 敗北後、スウェーデン王国はエストニア地方への領土拡大を断念し、北東欧における勢力バランスが変化した。 この出来事は北方十字軍の東方拡大の限界を示す重要な転機となった。
1220年 リフラの戦い スウェーデン王国 北方十字軍 エストニア レーネ地方 カール・ドーヴ
1588年

スペイン無敵艦隊がアルマダの海戦でイングランド艦隊に敗北。

1588年8月8日、アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊がイングランド艦隊に敗れ、スペインの海上覇権が揺らいだ。
アルマダの海戦は1588年7月末から8月初旬にかけて行われ、8月8日に北フランス沖グラヴリーヌ付近で決定的な衝突が起きた。 フェリペ2世が率いるスペイン無敵艦隊はイングランド艦隊の機動力と火力に晒され、次々に損害を受けた。 イングランド艦隊は素早い攻撃と艦隊分散戦術を用いて優位に立ち、スペイン艦隊を撃退した。 帰路の荒天や補給不足も重なり、無敵艦隊は壊滅的被害を受けてスペインの海上支配は終焉を迎えた。 この敗北はイギリス海軍の台頭を象徴し、ヨーロッパの勢力図を塗り替える契機となった。
1588年 スペイン アルマダの海戦 イングランド
元治元年7月7日

天狗党の乱: 江戸幕府・諸藩の軍勢と天狗党が戦闘状態に入る。

1864年8月8日、天狗党の乱で幕府軍と諸藩連合軍が尊王攘夷派『天狗党』と衝突した。
天狗党の乱は幕末の1864年(元治元年)に発生した尊王攘夷運動の過激派と幕府・諸藩軍との武力衝突である。 水戸藩出身の志士たちから成る天狗党は、攘夷の実現と尊王の確立を掲げて各地で活動していた。 8月8日、幕府と協調する諸藩兵が彼らの拠点を包囲・攻撃し、激しい市街戦やゲリラ戦が繰り広げられた。 天狗党は抵抗を試みたものの、組織力と武装の差から次第に劣勢となり、多くが戦死または捕縛された。 この乱は幕府の治安維持の強硬姿勢を示し、尊王攘夷運動の行き詰まりを象徴する事件となった。
1864年 元治 7月7日 天狗党の乱 江戸幕府 諸藩
1918年

第一次世界大戦・「ドイツ陸軍暗黒の日」。この日に開始されたアミアンの戦いにおけて、ドイツ軍が大敗。

1918年8月8日、第一次世界大戦中のアミアンの戦いで連合国軍が大攻勢を開始し、ドイツ軍が「暗黒の日」と呼ばれる大敗を喫しました。
1918年8月8日、連合国軍によるアミアンの戦いが始まりました。イギリス・フランス・アメリカ軍が総力を結集し、夜明けと共にドイツ軍前線に攻撃を仕掛けました。連合軍の迅速な機甲部隊と砲兵支援によりドイツ軍前線は崩壊し、多数が捕虜となる大損害を出しました。この敗北によりドイツ軍の士気は著しく低下し、「ドイツ陸軍暗黒の日」と呼ばれました。ハンドレッドデイズ攻勢の突破口となり、戦局の転換点として歴史に刻まれています。
1918年 第一次世界大戦 ドイツ陸軍暗黒の日 ドイツ語版 アミアンの戦い 英語版
1942年

第二次世界大戦・ソロモン諸島の戦い: 第一次ソロモン海戦。翌日、日本の勝利で終結。

1942年8月8日、第一次ソロモン海戦が行われ、日本軍が夜間戦闘で連合軍艦隊を打ち破る勝利を収めました。
1942年8月8日、ソロモン諸島沖で第一次ソロモン海戦が開戦しました。日本海軍は雷撃戦術を駆使し、夜間に連合軍艦隊を襲撃しました。巡洋艦や駆逐艦が連携して攻撃し、連合軍艦艇数隻を撃沈または損傷させました。戦闘は翌日8月9日まで続き、日本側の戦術勝利で終結しました。この海戦は太平洋戦線における夜戦の優位性を示し、連合軍の戦略見直しを促しました。続くマダラ沖海戦への布石ともなり、戦局に影響を与えました。
1942年 第二次世界大戦 ソロモン諸島の戦い 第一次ソロモン海戦
1945年

第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が1946年4月まで有効であった日ソ中立条約に違反し、日本に宣戦布告する。宣戦から数十分が経過した8月9日未明に満州、朝鮮、樺太でソビエト赤軍が一斉に日ソ国境を突破する。

1945年8月8日、ソビエト連邦が対日宣戦布告し、日ソ中立条約を破棄して満州や樺太への侵攻を開始しました。
1945年8月8日深夜、ソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告しました。これにより満州、朝鮮北部、南樺太で赤軍が国境を一斉に突破しました。ソ連の参戦は欧米連合国との連携によるもので、対日戦を二正面戦に拡大しました。短時間で大規模な侵攻が行われたことで日本側は対応を強いられました。参戦は日本の降伏を促す要因の一つとなり、戦後の国際秩序形成にも影響を与えました。
1945年 ソ連対日参戦 ソビエト連邦 1946年 日ソ中立条約 満州 朝鮮 樺太 ソビエト赤軍
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 福山大空襲。

1945年8月8日未明、アメリカ軍B-29爆撃機による福山大空襲が実施され、市街地の大半が焼失しました。
1945年8月8日未明、アメリカ軍B-29爆撃機が福山市を襲い大規模な空襲が行われました。焼夷弾と爆弾により市街地の多くが炎上し、住宅や商業施設が甚大な被害を受けました。正確な死傷者数は不明ですが、多数の民間人が犠牲となりました。この空襲は広島県内で最大規模のものとされ、戦争末期の無差別攻撃を象徴します。戦後、被災地の復興には市民や自治体の懸命な努力が重ねられました。
日本本土空襲 福山大空襲
1945年

第二次世界大戦・日本本土空襲: 筑紫駅列車空襲事件。

1945年8月8日、筑紫駅に停車中の列車が米軍機の空襲を受け、多数の乗客が犠牲となった事件です。
1945年8月8日、アメリカ軍のB-29戦略爆撃機による本土空襲作戦の一環として筑紫駅が攻撃された。 停車中の列車に機銃掃射や焼夷弾投下が行われ、多くの乗客と乗務員が負傷または死亡した。 事件は地方鉄道や一般市民が戦禍に巻き込まれる深刻さを示した。 被災地域では復旧作業が難航し、以降も戦時中の混乱と恐怖感が増大した。 戦後、犠牲者の慰霊や遺族支援の動きが見られ、空襲被害の記憶として語り継がれている。
筑紫駅列車空襲事件
1990年

湾岸戦争: イラクがクウェートの併合を宣言。

1990年8月8日、イラクがクウェート併合を宣言し、湾岸戦争の緊張が一気に高まった。
イラクのサッダーム・フセイン政権はクウェートをイラクの19番目の州と主張。 国際社会は直ちに非難し、国連安全保障理事会は経済制裁決議を採択した。 アメリカを中心とする多国籍軍はクウェート解放のための軍事行動を準備。 この宣言は翌年1月の砂漠の嵐作戦(Operation Desert Storm)へとつながった。 湾岸戦争は国際政治における石油資源をめぐる対立の象徴的事件となった。
1990年 湾岸戦争 イラク クウェート