紀元前48年
ローマ内戦: ファルサルスの会戦。
紀元前48年にローマ内戦の転機となったファルサルスの会戦が行われ、ユリウス・カエサルがポンペイウスを打ち破った。
紀元前49年に始まったポンペイウス派とカエサル派の内戦の一戦。
テッサリア地方のファルサルス平原で行われた。
カエサル軍は兵力で劣勢ながらも巧妙な戦術で勝利。
ポンペイウスは敗走後エジプトへ逃亡することに。
この勝利でカエサルは権力基盤を確立し、ローマ共和政の終焉に大きく寄与。
後のローマ帝国成立への道筋を開いた重要な戦いである。
紀元前48年
ローマ内戦
ファルサルスの会戦
378年
ゴート戦争: ハドリアノポリスの戦い。
378年にローマ帝国軍がゴート族に大敗し、西ローマ帝国の衰退を象徴するハドリアノポリスの戦いが起きた。
東ローマ皇帝ウァレンスが領内への侵入ゴート族を討つため出陣。
フィリピを経てハドリアノポリス(現在のエディルネ)近郊で激突。
ローマ軍は騎兵の不手際や情報不足により包囲される。
華々しい騎馬戦を展開したゴート族により皇帝ウァレンスが戦死。
この敗北はローマ軍制の脆弱性を露呈し、西ローマへの道を開いた。
ゲルマン系諸族の侵入を招き、帝国の分裂と衰退を加速させた。
378年
ゴート戦争
ハドリアノポリスの戦い
天武天皇15年7月15日
政を皇后・皇太子に託す。
天武天皇が皇后と皇太子に政務を委任し、皇位継承や儀式運営の実権を移譲した。
686年7月15日(天武天皇15年7月15日)、天武天皇は政務を皇后持統天皇(後の持統天皇)と皇太子軽皇子に託した。
朝廷内の派閥調整や国家儀式執行の実権移行を目的としたとされる。
この措置により、持統天皇は後に即位へ向けた準備を進める。
軽皇子(後の文武天皇)も政治経験を蓄積し、次代皇位への布石となった。
飛鳥時代の皇権体制や律令制確立の過程で重要な転換点となった。
686年
天武天皇
7月15日
1134年
2人のノルウェー共同王 : マグヌス・シグルズソンとハーラル・ギッレが全ノルウェー支配権をめぐり、フィリスレイフで戦った。
1134年にノルウェーの共同王マグヌス・シグルズソンとハーラル・ギッレがフィリスレイフで衝突し、王権を巡る内乱が激化した。
マグヌスとハーラルは父系を巡る王位継承権を主張し共同統治を行っていた。
しかし、支配権をめぐる不和から1134年にフィリスレイフで大規模な戦闘が勃発。
両軍は激しい白兵戦を展開し、ノルウェー全土の貴族や傭兵が動員された。
戦いの結末や戦果には諸説あるが、王権争いはその後も長引くことに。
この内乱はノルウェー中世史における分裂と再統一の一端を示す重要事変である。
1134年
マグヌス・シグルズソン
ハーラル・ギッレ
1173年
ピサの斜塔が着工される。
1173年にイタリアのピサで世界的に有名なピサの斜塔の建設が始まった。
建設はピサ大聖堂の鐘楼として企画され、設計者はベオンネ・ディ・ジョバンニともされる。
1173年8月9日、石材を積み始めたのが公式な起工日とされる。
地盤が弱く軟弱であったため建設早期から傾きが発生し、塔の独特な姿が形成された。
建築は度重なる戦乱や資金難により200年以上かけて数期に分けて行われた。
現在は世界遺産「ピサのドゥオーモ広場」の一部として観光名所となっている。
1173年
ピサの斜塔
1803年
パリ・セーヌ川でロバート・フルトンが蒸気船の試走に成功。
1803年にロバート・フルトンがセーヌ川で蒸気船の試走に成功し、蒸気航行技術の実用化に一歩前進した。
アメリカ人技術者ロバート・フルトンは蒸気機関を船に応用する研究を進めていた。
パリ近郊のセーヌ川で自作の蒸気船「ネイオプトレーム」の試験航行を実施。
軽量な蒸気エンジンとスクリュー推進を組み合わせ、安定した航行を実現。
この成功がヨーロッパ各地で蒸気船開発ブームを巻き起こした。
蒸気船は産業革命と海運・内陸航路の発展を大きく推進する技術革新となった。
1803年
セーヌ川
ロバート・フルトン
蒸気船
1814年
インディアン戦争・クリーク戦争: クリーク族がジャクソン砦条約への調印を強要され、2,300万エーカーの土地をアメリカ合衆国に割譲させられる。
1814年にクリーク戦争の講和条約「ジャクソン砦条約」が締結され、クリーク族が広大な領土を強制的に割譲させられた。
アメリカ南東部で英米戦争と並行して起きたクリーク戦争の帰結。
アンドリュー・ジャクソン将軍率いる米軍が主要な戦闘で圧勝。
8月9日の調印でクリーク族は2,300万エーカー(約93万ヘクタール)の土地を放棄。
多くの先住民が生活基盤を失い、移住を余儀なくされる悲劇を招いた。
この条約はアメリカ南部の白人入植拡大と先住民排除政策を加速させた。
1814年
インディアン戦争
クリーク戦争
クリーク族
ジャクソン砦条約
英語版
エーカー
アメリカ合衆国
1842年
アメリカ合衆国とカナダがウェブスター=アッシュバートン条約に調印。両国の国境線を確定。
1842年にアメリカ合衆国とイギリス領カナダがウェブスター=アッシュバートン条約に調印し、国境線を確定した。
米英間の北東部境界を巡る対立を解決するため交渉が進行。
米国国務長官ダニエル・ウェブスターと英外相ロバート・アッシュバートンが主導。
条約によりメイン州とニューブランズウィック州の境界線が明確化。
グレートレイクス沿岸やセントローレンス川流域の領有権も確定。
安定した国境の確立は、米英の友好関係維持と北米の平和的発展に寄与した。
1842年
ウェブスター=アッシュバートン条約
1854年
ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン 森の生活』が刊行。
1854年にヘンリー・デイヴィッド・ソローの著作『ウォールデン 森の生活』が刊行され、自然哲学や個人主義を説く名著として評価された。
ソローはマサチューセッツ州コンコード近郊の森の中に小屋を建て、自給自足の生活を実践。
その体験から得た自然観や自己探求の思索を文章化。
森での2年間の生活を通し、産業社会への批判や個人の自由を訴えた。
世紀を超え環境文学やトランセンデンタリズムの古典として高い評価を受ける。
植民地時代以降のアメリカ文学に大きな影響を与え、現代でも読み継がれている。
1854年
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
ウォールデン 森の生活
1869年
ヴィルヘルム・リープクネヒトらがドイツ社会民主労働党を結成。
1869年にヴィルヘルム・リープクネヒトらがドイツ社会民主労働党を結成し、近代社会主義運動の基盤を築いた。
ドイツ帝国成立直後の政治的混乱期に労働者政党の結成が模索される。
8月9日にリープクネヒトやアウグスト・ベーベルらがベルリンで会合。
社会主義と民主主義を掲げる新党「ドイツ社会民主労働党」が発足。
初期は反政府的立場を貫き、労働者の権利保護や選挙権拡大を訴えた。
後に最大政党へ成長し、現代ドイツ政治に影響を与え続ける存在となった。
1869年
ヴィルヘルム・リープクネヒト
ドイツ社会民主労働党
英語版
1902年
イギリス国王エドワード7世と后のアレクサンドラ・オブ・デンマークが戴冠。
1902年8月9日、イギリスでエドワード7世とアレクサンドラ王妃の戴冠式が執り行われました。
ヴィクトリア女王の崩御を受けて、王位を継承したエドワード7世は8月9日に正式に戴冠されました。戴冠式には各国から王族や外交使節が参列し、伝統と格式を重んじる盛大な儀式が展開されました。国内では市民による祝賀パレードや祝砲が行われ、帝国の団結と繁栄が示されました。新しい王朝の門出として、英国およびその海外領土で広く祝福のムードが広がりました。
1902年
イギリス
エドワード7世
アレクサンドラ・オブ・デンマーク
1933年
第1回関東地方防空大演習実施。8月11日、信濃毎日新聞が桐生悠々の社説「関東防空大演習を嗤ふ」を掲載し問題となる。
1933年8月9日、関東地方で初めての大規模防空演習が行われ、世論を巻き込む論争が発生しました。
日本政府は空襲への備えを強化するため関東一帯で大規模な防空演習を実施し、警報発令や避難誘導など実践的な訓練を行いました。しかし演習後、信濃毎日新聞の桐生悠々は社説『関東防空大演習を嗤ふ』で政府の過剰反応や市民への影響を厳しく批判。これにより報道の自由と国家安全保障の境界を巡る論争が勃発し、後の防空政策にも影響を与えました。
1933年
8月11日
信濃毎日新聞
桐生悠々