301年
サンマリノが成立。現存する中では世界最古の共和国。
301年、イタリア北東部のモンテ・ティターノにおいてサンマリノ共和国が建国。現存最古の共和国と称される。
301年、キリスト教の石工マリヌスがモンテ・ティターノ山に逃れ、その地に小さな共同体を築いたことがサンマリノ共和国の起源と伝えられています。
神聖ローマ帝国やナポリ王国など周囲の大国に囲まれつつも、独自の自治を維持し続けました。
中世以降も巧みな外交と内政で存続を図り、現代でも最小の主権国家として国際社会に認められています。
サンマリノはその長い歴史と伝統を尊重し、観光客に開かれた小国としても知られています。
毎年8月には中世の衣装を纏った祭りも開催され、歴史を感じることができます。
301年
サンマリノ
590年
グレゴリウス1世が第64代ローマ教皇に就任。
590年、グレゴリウス1世がローマ教皇に選出され、後に『大グレゴリウス』と称される改革を始めた。
590年9月3日、修道士であり教会改革を志していたグレゴリウス1世が第64代ローマ教皇に就任しました。
彼は教会の財政再建や聖歌の整備(後のグレゴリオ聖歌)を推進し、西欧の教会制度に大きな影響を与えました。
また、ランゴバルド王国や東ローマ帝国との外交交渉を通じてローマの安全確保にも努めました。
その人格と行政手腕から『大グレゴリウス』と尊称され、カトリック教会史上屈指の名君として知られています。
彼の業績は中世ヨーロッパの教会と国家の関係性に深い足跡を残しました。
590年
グレゴリウス1世
ローマ教皇
1189年
リチャード獅子心王がウェストミンスター寺院で戴冠。
1189年、イングランド王リチャード1世がウェストミンスター寺院で戴冠し、獅子心王として知られる。
1189年9月3日、リチャード1世(獅子心王)はウェストミンスター寺院でイングランド王として正式に戴冠しました。
彼は父ヘンリー2世の死去を受けて王位を継承し、即座に領土回復やフランスとの対立に備える必要に迫られました。
リチャードは後に第三回十字軍の指導者として名を馳せ、その勇猛さと騎士道精神で称賛を集めました。
戴冠式は華麗な儀式とロイヤルガードの行進で彩られ、その威厳はヨーロッパ中に知られ渡りました。
彼の治世は短期間ながら強力で、多くの伝説と物語の舞台となりました。
1189年
リチャード獅子心王
ウェストミンスター寺院
1335年
ハンガリー王カーロイ1世がボヘミアのヨハン・フォン・ルクセンブルクとポーランド王カジミェシュ3世ヴィエルキの争いを仲裁、後に両国と同盟を結ぶ。
1335年、ハンガリー王カーロイ1世が中欧の争いを調停し、後にボヘミア・ポーランドと同盟を結んだ。
1335年9月3日、ハンガリー王カーロイ1世はボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクとポーランド王カジミェシュ3世ヴィエルキの対立を仲裁しました。
この調停は中欧の安定を図るとともに、ハンガリーの影響力を高める機会となりました。
後に三国は同盟を結び、ヴァイゼグラード会議として知られる外交的枠組みを形成しました。
この同盟は交易路の安全確保や国境防衛に寄与し、地域の繁栄に役立ちました。
カーロイ1世の手腕は中世ヨーロッパの外交史において高く評価されています。
1335年
ハンガリー王
カーロイ1世
ヨハン・フォン・ルクセンブルク
ポーランド王
カジミェシュ3世ヴィエルキ
1411年
セリンブリア条約(英語版)がオスマン帝国とヴェネツィア共和国間で結ばれる。
1411年、オスマン帝国とヴェネツィア共和国がセリンブリア条約を締結し、一時的な和平を実現した。
1411年9月3日、オスマン帝国とヴェネツィア共和国はセリンブリア条約に調印しました。
この条約は両国間の商船航行や交易に関する取り決めを定め、一時的な軍事衝突の停止をもたらしました。
オスマン帝国はアドリア海沿岸への影響力を拡大しようとし、ヴェネツィアは東地中海交易の安定を求めていました。
条約によって得られた和平の期間、両国は海上貿易路の整備と防衛強化に注力しました。
しかし翌年以降も緊張は続き、16世紀の大規模な戦争へと展開していきました。
1411年
セリンブリア条約
英語版
オスマン帝国
ヴェネツィア共和国
慶長8年7月28日
徳川家康の孫で7歳の千姫が、11歳の豊臣秀頼に輿入れ。
7歳の千姫が豊臣秀頼に輿入れし、徳川家と豊臣家の政治的結びつきを強化した婚姻が成立しました。
1603年7月28日、徳川家康の孫である7歳の千姫が豊臣秀頼に嫁ぎ、政略的な婚姻関係が成立した。
この婚姻は江戸幕府と豊臣氏の緊張緩和を目的とし、両家の協調を象徴した。
千姫は幼少ながら華やかな婚儀を経験し、後の大坂の陣でも注目を集める人物となった。
豊臣秀頼側はこの同盟によって幕府との和解を期待したが、結果として後の抗争を避けるには至らなかった。
日本の戦国・安土桃山時代から江戸時代初期の権力闘争を理解する上で、重要なエピソードとなっている。
1603年
慶長
7月28日
徳川家康
千姫
豊臣秀頼
1658年
イングランド共和国護国卿オリバー・クロムウェル死去、息子リチャード・クロムウェルが護国卿となる。
イングランド共和国の護国卿オリバー・クロムウェルが死去し、息子リチャードがその地位を継承しました。
1658年9月3日、イングランド共和国の最高権力者である護国卿オリバー・クロムウェルが没した。
彼は内戦で王党派を打倒し、『護国卿』として実質的な国家元首を務めていた。
死去に伴い長男リチャード・クロムウェルが護国卿に任命されるが、軍部の支持を失い政治的混乱が深まった。
リチャードの短命政権は『日没護国卿』と揶揄され、その後の王政復古につながる要因となった。
護国卿体制の崩壊はイングランドの立憲制発展にも影響を与えた。
1658年
護国卿
オリバー・クロムウェル
リチャード・クロムウェル
1783年
アメリカ独立戦争の講和条約であるパリ条約が調印される。独立戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を承認。
アメリカ独立戦争を終結させたパリ条約が締結され、イギリスがアメリカの独立を正式に承認しました。
1783年9月3日、イギリス、アメリカ合衆国、フランス、スペイン間で平和条約(パリ条約)が調印された。
条約によりイギリスはアメリカの独立を正式に承認し、ミシシッピ川以東の領土割譲を認めた。
アメリカ側は領土の拡大と新国家の法的地位を確立し、国際社会への参加を果たした。
フランスやスペインとの条約も同時期に締結され、ヨーロッパ列強の勢力均衡に影響を与えた。
独立戦争の終結はアメリカ合衆国建国の最終段階を迎えた瞬間とされる。
1783年
アメリカ独立戦争
パリ条約
イギリス
アメリカ合衆国
独立
承認
1791年
フランス革命:憲法制定国民議会が1791年憲法を制定。
1791年憲法が制定され、絶対王政から立憲君主制への移行が試みられました。
1791年9月3日、フランス革命における憲法制定国民議会は1791年憲法を採択した。
この憲法は絶対王政を制限し、立憲君主制を導入するヨーロッパ初の試みの一つとされた。
人民代表機関の設置や基本的人権の尊重を規定し、啓蒙思想の影響を色濃く示した。
しかし王権と国民議会の権限を巡る対立は解消されず、革命のさらなる激化を招く要因となった。
フランスのみならず周辺諸国にも大きな政治的波及効果を及ぼした。
1791年
フランス革命
憲法制定国民議会
1791年憲法
1843年
バイエルン軍の撤退を契機にギリシャでクーデタが起きオソン1世が憲法の制定を承認させられる。
1843年9月3日、ギリシャで民兵と兵士が蜂起し、オットー1世が憲法制定を認めさせられました。
ギリシャ独立後、バイエルン出身のオットー1世は絶対王政を敷いていました。
しかし1843年9月3日、兵士や市民が首都アテネで蜂起し、立憲制導入を要求しました。
バイエルン軍の撤退を背景に議会開設と憲法制定が強く迫られました。
オットー1世は軍事的圧力の前に屈し、憲法の制定を承認しました。
これによりギリシャは憲法王政へ移行し、政治的近代化の第一歩を踏み出しました。
1843年
バイエルン
ギリシャ
オソン1世
安政3年8月5日
タウンゼント・ハリスが下田の玉泉寺に駐日アメリカ領事館を設置。
1856年9月3日、タウンゼント・ハリスが下田の玉泉寺にアメリカ初の駐日領事館を設置しました。
タウンゼント・ハリスは日米修好通商条約に基づき日本に派遣された初代米国公使です。
安政3年8月5日(グレゴリオ暦9月3日)、下田の玉泉寺を仮の領事館として使用することになりました。
これにより幕府とアメリカ間に正式な外交窓口が開かれました。
ハリスは通商交渉や居留地設置に尽力し、日本の開国と国際関係構築の基礎を築きました。
この領事館設置は幕末期の国際化を象徴する重要な出来事です。
1856年
安政
8月5日
タウンゼント・ハリス
下田
玉泉寺
領事館
1856年
ヌーシャテル危機(英語版)
1856年9月3日、スイスとプロイセンの間でヌーシャテル地方を巡る危機が勃発しました。
ヌーシャテル危機はスイス連邦とプロイセン王国との間で領有権を巡る外交紛争です。
1815年のウィーン会議でスイスに加盟したヌーシャテル州は、名目上プロイセン王が関与していました。
1856年9月3日、プロイセンが再び領有権を主張し、国際問題化しました。
スイス国内では軍備動員準備が進められ、緊張が高まりました。
最終的に英仏などの調停により武力衝突は回避され、外交交渉で解決しました。
この事件はスイスの永世中立と欧州勢力均衡の重要性を示す出来事です。
ヌーシャテル危機
英語版