617年
霍邑の戦い。李淵が隋軍に勝利。
唐王朝成立の緒戦。李淵が隋軍を破り、唐建国の足がかりを築いた。
617年9月8日、唐の建国を目指す李淵が隋の大軍を霍邑で迎え撃ち、奇襲を仕掛けて勝利を収めました。この戦いは隋末の動乱期における最初期の大規模戦闘であり、李淵軍の士気を高めました。勝利後、李淵は洛陽を攻略して大将軍に任命され、やがて皇帝として即位しました。霍邑の戦いは隋滅亡と唐王朝樹立の契機となった歴史的転換点です。
617年
霍邑の戦い
英語版
中国語版
李淵
隋
771年
コンスタンティノス6世が東ローマ帝国イサウリア朝(シリア朝)の第4代皇帝として即位。
若き皇帝が即位し、母イレーネとの摂政政治が始まる。
771年9月8日、東ローマ帝国イサウリア朝の第4代皇帝として12歳のコンスタンティノス6世が即位しました。幼少の皇帝の治世は母イレーネが摂政として実権を握る体制で始まり、両者の権力闘争が宮廷政治を複雑化させました。国内ではアラブ勢力との国境紛争が続き、バルカン半島での統治問題も山積しました。後にコンスタンティノス6世は母に反旗を翻すも敗北し、最終的にイレーネに廃位される波乱の運命をたどりました。
771年
コンスタンティノス6世
東ローマ帝国
イサウリア朝
皇帝
1011年
ヨムスヴァイキングの司令官のっぽのトルケル率いるデーン人ヴァイキングがカンタベリーに向けて進軍を開始した。その後3週間市街を包囲し、占領した。
デーン人ヴァイキングがカンタベリーを包囲し占領した攻城戦。
1011年9月8日、ヨムスヴァイキング率いるデーン人部隊がカンタベリーへ進軍し、約3週間にわたり市街を包囲しました。聖オーガスティン大聖堂を含む重要拠点を占領し、町は略奪と焼き討ちに見舞われました。大司教アルフェルムは捕らえられ、人質として身代金が要求されました。最終的に支払いが行われたことで大司教は解放されましたが、イングランド南東部に大きな衝撃を与えました。北海沿岸諸国との勢力争いを象徴する事件です。
1011年
ヨムスヴァイキング
のっぽのトルケル
デーン人
ヴァイキング
カンタベリー
1100年
テオドリクスがこの日に死したクレメンス3世の後を継ぎハインリヒ4世の皇帝派の擁立でパスカリス2世の対立教皇になる。
ハインリヒ4世派の対立教皇が擁立され、教皇権を巡る対立が激化。
1100年9月8日、教皇クレメンス3世の死去に際し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世派は神学者テオドリクスをパスカリス2世に対抗する教皇として擁立しました。テオドリクスはローマで対立教皇としての権威を主張しましたが、広範な支持を得ることはできず、短期間で勢力が衰退しました。一方、パスカリス2世は教皇庁の実権を維持し、グレゴリウス改革の進展に寄与しました。この事件は教会と皇帝の権力闘争を象徴しています。
1100年
テオドリクス
クレメンス3世
ハインリヒ4世
パスカリス2世
治承4年8月17日
源頼朝が伊豆国で挙兵する。
源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵し、鎌倉幕府樹立への布石となる。
1180年9月8日(治承4年8月17日)、源頼朝は伊豆国で兵を挙げ、平家政権への反乱を宣言しました。北条時政ら伊豆の有力地頭を味方につけ、韮山を拠点に軍事活動を開始した頼朝は、各地の武士を結集し源平合戦の先鞭をつけました。これにより源氏方は勢力を拡大し、後の鎌倉幕府樹立へとつながる重要な転換点となりました。日本史における武士政権の時代が幕を開けた象徴的出来事です。
1180年
治承
8月17日
源頼朝
伊豆国
1264年
ボレスワフ敬虔公がカリシュの法令を発令。
ユダヤ人に特別権利を認めた中世ヨーロッパ初期の寛容政策。
1264年9月8日、ポーランドの大公ボレスワフ敬虔公はカリシュの法令を発布しました。この法令はユダヤ人共同体に居住権、安全保障、商業活動の自由や免税を認める内容で、中世ヨーロッパでは異例の寛容政策とされています。ユダヤ人は法的保護を得て交易や金融業務を活発化させ、ポーランド経済の発展に寄与しました。法令は後に他公国にも受け継がれ、ポーランドにおけるユダヤ人史の礎となりました。
1264年
ボレスワフ敬虔公
カリシュの法令
1298年
クルツォラ戦争: クルツォラの海戦。
ジェノヴァとヴェネツィアの海上覇権を賭けた激戦。
1298年9月8日、ジェノヴァ共和国とヴェネツィア共和国間の第4次ジェノヴァ・ヴェネツィア戦争において、クルツォラの海戦が勃発しました。ジェノヴァ艦隊は巧妙な戦術でヴェネツィア艦隊を包囲し、多数の船団を撃破しました。捕虜となった船員や指揮官は交渉材料とされ、ジェノヴァの海上輸送路の安全が確保されました。この勝利によりジェノヴァは地中海西部での影響力を一層強化しました。
1298年
クルツォラ戦争
クルツォラの海戦
1322年
ミュールドルフの戦い、バイエルン公国とオーストリアの戦い。
皇帝位をめぐる神聖ローマ帝国内の封建領主同士の激突。
1322年9月8日、神聖ローマ帝国皇帝位継承を巡り、バイエルン公ループレヒト1世軍とオーストリア大公フリードリヒ軍がミュールドルフ近郊で激突しました。ループレヒト軍は騎士隊を中心に攻勢をかけ、オーストリア軍を壊滅させました。敗北したフリードリヒは捕虜となり、選帝侯の支持を失ったことで皇帝選出戦線から脱落しました。この戦いは中世ヨーロッパの封建的抗争を象徴する出来事です。
1322年
ミュールドルフの戦い
英語版
バイエルン公国
オーストリア
1331年
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンがセルビア王に即位。1346年にはセルビア皇帝として即位。
セルビア王に即位し、後にセルビア皇帝となる強力な君主が誕生。
1331年9月8日、ステファン・ウロシュ3世の死去に伴い、ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンがセルビア王に即位しました。彼は1346年にセルビア皇帝として即位し、領土拡大と中央集権化を推進しました。ドゥシャン法典の制定により法制度が整備され、セルビア帝国はバルカン半島で最盛期を迎えました。経済や文化も大いに発展し、「セルビア黄金時代」を象徴する君主として知られています。
1331年
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン
セルビア王
1346年
1380年
クリコヴォの戦い。ルーシがタタールに初めて勝利。
モスクワ大公国がモンゴル=タタール軍に勝利した歴史的戦闘。
1380年9月8日、モスクワ大公ドミトリー・イヴァノヴィチ(ドミトリー・ドンスコイ)率いるルーシ諸侯連合軍がタタール・ウズベク・ハン国の軍勢をクリコヴォ野で破りました。戦術的に伏兵を用いた奇襲が勝利の鍵となり、モンゴル支配からの自立を志向する動きを加速させました。勝利後、諸侯はモスクワ大公への忠誠を誓い、ロシア統一への基盤が築かれました。この戦いはロシア民族史における象徴的な出来事です。
1380年
クリコヴォの戦い
ルーシ
タタール
1504年
ミケランジェロ作の「ダビデ像」の公開がはじまる。
イタリア・フィレンツェでミケランジェロの大理石彫刻「ダビデ像」が一般公開され、美術史に燦然と輝く傑作が世に出ました。
1504年9月8日、フィレンツェのパラッツォ・デッラ・シニョリーア前で「ダビデ像」が初めてお披露目されました。
この像は旧約聖書のダビデを題材に、高さ約5.17メートルの大理石から彫り出された圧倒的な存在感を誇ります。
ミケランジェロが約3年をかけて完成させたこの作品は、人体の解剖学的正確さと芸術的表現が見事に融合したルネサンス美術の頂点と称されます。
公開直後から市民や貴族たちは見物に殺到し、その卓越した造形美に驚嘆しました。
「ダビデ像」はフィレンツェ共和国の象徴としても愛され、以降の西洋美術に多大な影響を与え続けています。
1504年
ミケランジェロ
ダビデ像
1514年
第4次モスクワ・リトアニア戦争: オルシャの戦い。
1514年、リトアニア・ポーランド連合軍がモスクワ軍を破ったオルシャの戦いが激しく繰り広げられました。
1514年9月8日、第4次モスクワ・リトアニア戦争の主要会戦「オルシャの戦い」が行われました。
ポーランド・リトアニア連合軍は先進的な火縄銃部隊を巧みに運用し、モスクワ軍を大規模に撃破。
この勝利はバルト海と東欧の覇権争いにおいてリトアニア大公国の優位を確立させました。
戦術の面でも伝統的な騎兵戦術に火器を組み合わせる新たな試みが功を奏し、後の欧州戦史にも影響を与えています。
敗北したモスクワ大公国は軍改革を余儀なくされ、東欧情勢の変化を招く契機となりました。
1514年
モスクワ・リトアニア戦争
英語版
オルシャの戦い
英語版