81年

前日のティトゥスの死去に伴い弟のドミティアヌスがローマ皇帝に即位。

ティトゥスの死去を受け、弟ドミティアヌスがローマ皇帝に即位しました。帝位継承の瞬間は帝国の命運を大きく左右しました。
81年9月14日、ローマ皇帝ティトゥスの死去に伴い、ドミティアヌスが新たに皇帝位を継承しました。ドミティアヌスはヴェスパシアヌス帝の養子として育ち、ティトゥスの後を継ぐ形で即位しました。彼の治世は当初から元老院や貴族との軋轢が目立ち、強権的な政策を断行したことで知られます。帝国の財政再建や治安維持に努め、公的事業を拡大しましたが、晩年は暴政と評されることもありました。その後、98年に暗殺されるまでの統治は、ローマ帝国の権力構造と皇帝権の在り方に深い影響を与えました。
81年 ティトゥス ドミティアヌス ローマ皇帝
宝亀元年8月21日

道鏡が下野国薬師寺別当に配流。

皇位簒奪の疑いを受けた僧侶道鏡が下野国へ配流され、その勢力は一挙に削がれました。
770年9月14日(宝亀元年8月21日)、皇位継承を巡り政治的影響力を強めていた道鏡は下野国薬師寺別当に左遷されました。道鏡は称徳天皇の寵臣として権勢を振るい、皇位簒奪の疑いがかけられていました。光仁天皇即位後の政変で失脚し、地方への配流という形で排除されることとなりました。この事件は天皇と僧侶の権力関係をめぐる重要な転機とされています。
770年 宝亀 8月21日 道鏡
786年

ハールーン・アッ=ラシードがアッバース朝第5代カリフに即位。

アッバース朝の第5代カリフにハールーン・アッ=ラシードが即位し、黄金時代の幕開けを告げました。
786年9月14日、ハールーン・アッ=ラシードが第5代アッバース朝カリフに即位しました。在位中、彼はバイト・アル=ヒクマ(知恵の館)を設立し、学問と文化を保護しました。東ローマ帝国やビザンツ帝国との外交関係も重要視し、交易路の安全確保に努めました。科学や芸術が栄えたこの時代は「イスラム世界の黄金時代」と称され、多くの学者や詩人が宮廷に集いました。ハールーンの治世は後世に語り継がれる豊かな文化と繁栄の象徴です。
786年 ハールーン・アッ=ラシード アッバース朝 カリフ
建久4年8月17日

源頼朝が弟・範頼を伊豆・修禅寺に幽閉。

源頼朝が弟・範頼を伊豆の修禅寺に幽閉し、権力基盤を固めました。
1193年9月14日(建久4年8月17日)、鎌倉幕府初代将軍源頼朝は、弟の範頼を謀反の嫌疑で伊豆国修禅寺に幽閉しました。この措置により、幕府内の潜在的な対立勢力を抑え込み、頼朝の支配体制は一層強固となりました。範頼の幽閉は、兄弟間の確執が政治的均衡に影響を与えたことを象徴する事件として知られます。後の幕府政治において御家人との関係構築にも波及する出来事でした。
1193年 建久 8月17日 範頼 修禅寺
明和4年8月22日

明和事件。江戸幕府によって山県大弐や藤井右門らが処刑される。

江戸幕府が1767年に明和事件として山県大弐らを処刑した政治弾圧事件です。
明和事件は江戸幕府が蘭学や尊王論を唱えた学者らを弾圧したものです。 山県大弐や藤井右門らは幕府批判的な言動を理由に捕縛され、処刑されました。 幕府の中央集権強化策としての学問統制の一環とされます。 この事件は知識人社会に緊張感をもたらし、後の思想統制にも影響を与えました。 当時の言論の自由や学問の限界を象徴する歴史的出来事です。
1767年 明和 8月22日 明和事件 江戸幕府 山県大弐 藤井右門
1791年

教皇庁がフランス革命によるフランス立憲王国によりアヴィニョンを喪失。

1791年、教皇庁領アヴィニョンがフランス革命政府により併合されました。
アヴィニョンと周辺地域は中世以来教皇庁の直轄領でした。 フランス革命により立憲王国政府は教皇領を廃止し、フランス領として併合しました。 これにより教皇庁は長年の領土を喪失し、ヨーロッパ宗教地図が大きく変わりました。 フランス革命期の政教分離と中央集権化の象徴的な出来事です。 現在も当時の城壁や教皇宮殿が残り、世界遺産にも登録されています。
1791年 教皇庁 フランス革命 フランス立憲王国 アヴィニョン
1829年

オスマン帝国が露土戦争の講和条約「アドリアノープル条約」に署名。

オスマン帝国が露土戦争を終結させるアドリアノープル条約に署名し、領土や賠償金の条件が決定しました。
1828年に勃発した露土戦争はロシア帝国とオスマン帝国の対立であり、両国は黒海やバルカン半島を巡って激しい戦闘を繰り広げました。1829年9月14日、オスマン帝国の首都アドリアノープル(現在のエディルネ)で和平交渉が成立し、アドリアノープル条約に調印されました。条約ではオスマン帝国がクリミア半島や黒海におけるロシアの影響力拡大を容認し、ロシアはオスマンに賠償を要求しませんでした。また、バルカン諸民族の自治権に関する規定も含まれ、地域情勢に大きな影響を与えました。この条約は19世紀のヨーロッパ列強間の勢力均衡に影響を及ぼし、バルカン紛争の火種にもなりました。
1829年 オスマン帝国 露土戦争 アドリアノープル条約
安政5年8月8日

孝明天皇が水戸藩に対し戊午の密勅を下す。

孝明天皇が水戸藩に攘夷を命じる「戊午の密勅」を下し、攘夷運動を後押ししました。
安政5年(1858年)9月14日、孝明天皇は外国排斥を求める水戸藩に対し「戊午の密勅」を下しました。この密勅は幕府の開国政策に対する反発を示し、尊王攘夷運動を勢いづけるものとなりました。水戸学を背景とする水戸藩はこれを根拠に攘夷を強硬に主張し、幕府内部で対立が深まりました。密勅は幕府の外交政策を揺るがし、後の倒幕・明治維新への一因ともなった重要な皇命として位置づけられます。
1858年 安政 8月8日 孝明天皇 水戸藩 戊午の密勅
1901年

6日に狙撃されたアメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリーが死去。副大統領セオドア・ルーズベルトが大統領に就任。

マッキンリー大統領が狙撃されて死去し、ルーズベルトが第26代大統領に就任しました。
1901年9月6日にニューヨーク州バッファローで開催中の万国博覧会会場でウィリアム・マッキンリー大統領がレオン・チョルゴシュに狙撃されました。マッキンリーは重傷を負い、同月14日に死去しました。副大統領セオドア・ルーズベルトは大統領に即位し、若きリーダーとして進歩主義(プログレッシブ・ムーブメント)を推進しました。ルーズベルトの就任は米国政治に新風を巻き起こし、国内改革や海外進出政策に影響を与えました。
1901年 6日 狙撃 アメリカ合衆国大統領 ウィリアム・マッキンリー セオドア・ルーズベルト
ユリウス暦9月1日

ロシア帝国首相ピョートル・ストルイピンがキエフでアナキストに狙撃される。ストルイピンは9月18日に死亡。

1911年、ロシア帝国の首相ストルイピンがキエフで暗殺未遂に遭い、その4日後に死亡しました。
ピョートル・ストルイピンは1906年から1911年までロシア帝国の首相を務め、農地改革や警察権の強化などを推進しました。 1911年9月14日(ユリウス暦9月1日)、ウクライナのキエフ駅でアナキストによる狙撃を受け、大きな負傷を負いました。 狙撃後、ストルイピンは重傷のままモスクワへ搬送されましたが、同年9月18日に息を引き取りました。 この事件は帝国の安定を揺るがし、政情の混乱を加速させる一因となりました。 その後、後継の首相人事も政争により難航しました。
1911年 ユリウス暦 9月1日 ロシア帝国 ピョートル・ストルイピン キエフ アナキスト 9月18日
1917年

ロシア共和国の建国が宣言される。

1917年、ロシア臨時政府が帝政を終え、ロシア共和国の成立を宣言しました。
1917年3月(旧暦2月)に二月革命が起こり、皇帝ニコライ2世が退位して帝政は崩壊しました。 その後設立された臨時政府は同年9月14日に正式にロシア共和国の建国を発表し、共和制への移行を宣言しました。 共和国宣言では貴族的特権の廃止が謳われ、立憲民主制とソビエトの併存を試みる暫定的政体が示されました。 しかし、政治的混乱と戦争継続への国民不満が高まり、同年11月の十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握しました。 ロシア共和国は短命に終わり、新たなソビエト政府へと取って代わられました。
1917年 ロシア共和国 英語版
1930年

ドイツ国会の選挙が行われナチスが第二党に躍進。

1930年のドイツ国会選挙でナチス党が議席を大幅に伸ばし、第二党に躍り出ました。
1930年9月14日、世界恐慌の影響下で実施されたライヒスターグ選挙では経済的苦境への不満が高まっていました。 ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)は過激なプロパガンダを展開し、有権者の支持を集めました。 結果、ナチス党は初めて急進的に議席を増やし、社会民主党に次ぐ第二党の地位を獲得しました。 この躍進は国会内の分極化を招き、ヒンデンブルク大統領による緊急大統領令の多用を助長しました。 その後の政治的混乱が1933年のヒトラー政権樹立への道を開く一因となりました。
1930年 ドイツ国会の選挙 ナチス