延元3年8月11日

足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられる。

1338年、足利尊氏が北朝より征夷大将軍に任ぜられた出来事です。 この任命により室町幕府の基礎が築かれました。
南北朝時代の混乱の中、足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられました。 征夷大将軍は朝廷から武家政権を統制する最高権威として位置付けられる役職です。 この任命をもって室町幕府の成立が公式に認められ、日本の中世政治構造に大きな転換点を迎えました。 足利氏はこれまでの鎌倉幕府に代わる新たな武家政権を掌握し、京都を中心に権力を拡大します。 以後約240年間にわたり足利将軍家が政権を維持し、室町時代と呼ばれる時代が始まりました。
1338年 延元 8月11日 足利尊氏 北朝 征夷大将軍
1572年

「ビルカバンバのインカ帝国」の君主初代トゥパク・アマルが斬首される。

1572年、ビルカバンバのインカ帝国最後の君主トゥパク・アマルがスペイン軍により斬首される。
スペインによるインカ帝国征服後、アンデス山中で最後の抵抗拠点となったビルカバンバに君臨したトゥパク・アマル1世。 1572年9月24日、スペイン軍に捕らえられ、即座に斬首されました。 彼の処刑はインカ王朝の事実上の終焉を意味し、先住民抵抗勢力の壊滅を決定づけました。 ビルカバンバはスペイン支配下で鎮圧され、その後インカ帝国は完全に終息します。 トゥパク・アマルはその象徴的な遺産として後世の反植民地運動や芸術作品に繰り返し描かれています。
1572年 初代トゥパク・アマル
1631年

バフィン島南部に位置するイヌイットの集落キンゲイトが発見される。当時はケープ・ドーセットと呼ばれた。

1631年、バフィン島南部でイヌイットの集落キンゲイト(当時はケープ・ドーセット)が発見される。
1631年、北極圏に位置するカナダのバフィン島南部でイヌイットの定住集落が西洋人により確認されました。 当時はケープ・ドーセットと呼ばれ、後にキンゲイトと名付けられたこの地は独自の狩猟文化を持つイヌイットの重要拠点でした。 発見当初、西洋の探検家たちは過酷な環境の中での生活様式に注目し、多くの記録を残しました。 以後、この地域は北極探検や民族学研究の対象となり、イヌイットの伝統文化が世界に知られるきっかけとなりました。 現在のキンゲイト(サミセト)は、イヌイット文化を継承する代表的な村として知られています。
1631年 バフィン島 イヌイット キンゲイト 英語版
1645年

イングランド内戦: ロートン・ヒースの戦い

1645年、イングランド内戦の重要な戦いであるロートン・ヒースの戦いが行われる。
イングランド内戦(ピューリタン革命)中の1645年9月24日、チェスター近郊のロートン・ヒースで王党派と議会派の激戦が繰り広げられました。 議会派の将軍オリバー・クロムウェルが率いる機動部隊が王党派軍を包囲し、壊滅的な打撃を与えます。 この戦いは第一次内戦における最後の大規模衝突の一つとされ、議会派の優勢を決定づけました。 戦果により議会派は更なる勢力拡大を果たし、王党派は指導層に大きな損失を被りました。 ロートン・ヒースの勝利はクロムウェルの軍事的名声を高め、後の政界にも影響を与えました。
1645年 イングランド内戦 ロートン・ヒースの戦い 英語版
1688年

大同盟戦争: フランスのルイ14世が各国に宣戦布告、プファルツ略奪を開始する。

1688年、大同盟戦争が勃発し、ルイ14世がプファルツ地方略奪を開始する。
1688年9月24日、フランス王ルイ14世は大同盟(オーストリア、イングランド、オランダ等)に対して宣戦布告しました。 同日よりプファルツ選帝侯領への進軍を開始し、民間人や宗教施設への略奪・破壊行為を展開します。 このプファルツ戦役は「プファルツ略奪(Rheinfahrt)」とも呼ばれ、当時のヨーロッパに衝撃を与えました。 略奪行為は後の大同盟戦争におけるフランスの評判を悪化させ、同盟国の結束を強化する要因となりました。 ルイ14世の侵攻は17世紀後半のヨーロッパ情勢を大きく動かし、戦争の長期化を招く一因となりました。
1688年 大同盟戦争 フランス ルイ14世 プファルツ略奪
1689年

大トルコ戦争: ニシュの戦い

1689年、大トルコ戦争中のニシュの戦いが発生する。
1689年9月24日、ハプスブルク帝国を中心とする聖櫃同盟軍とオスマン帝国軍との間でニシュ(現在のセルビア)付近で戦闘が行われました。 聖櫃同盟軍はオスマン軍の南進を阻止しようと攻勢をかけ、城塞都市ニシュを包囲します。 激しい戦闘の末、同盟軍がオスマン軍を撃退し、戦術的勝利を収めました。 この勝利は大トルコ戦争におけるヨーロッパ側の士気を高め、オスマン帝国のバルカン地域進出に歯止めをかける契機となります。 戦いの結果、ニシュは数十年間にわたりヨーロッパ勢力下に置かれました。
1689年 大トルコ戦争 ニシュの戦い 英語版
享保15年8月13日

大坂の堂島米会所の設置が江戸幕府より公式に認可される。

1730年、大坂の堂島米会所が江戸幕府により公式に認可される。
享保15年(1730年)9月24日、江戸幕府は大坂(現在の大阪市)の堂島米会所を正式に認可しました。 堂島米会所は米の流通・価格調整を目的とした公的な取引所で、世界最古の先物取引市場とも称されます。 当時、米は貨幣的機能も持つ主要商品であり、その取引安定化は社会経済の安定に直結しました。 会所の設置により米価の変動リスクが軽減され、農村と都市部間の物流が円滑化されました。 この制度は後の金融市場の発展にも影響を与え、日本の商業・経済史における重要な節目となりました。
1730年 享保 8月13日 大坂 堂島米会所 江戸幕府
1762年

七年戦争: マニラの戦い。

1762年、七年戦争中にマニラの戦いが行われる。
七年戦争中の1762年9月24日、イギリス海軍と東インド会社の部隊がスペイン領フィリピンの首都マニラに上陸しました。 植民地防衛を担当していたスペイン軍およびフィリピン人義勇兵と激しい攻防戦を展開し、都市は短期間で陥落します。 マニラ占領によりイギリスは東南アジアにおける一時的な優位を確保し、同年末まで領有を維持しました。 この戦いは七年戦争のグローバル化を象徴する一幕とされ、植民地間競争の一端を示しました。 スペイン領回復までの間、マニラはイギリス軍の補給拠点として活用されました。
1762年 七年戦争 マニラの戦い
1789年

アメリカ大統領ワシントンが13人を保安官に任命、連邦保安官誕生。

1789年、ジョージ・ワシントン大統領が13人の連邦保安官を任命し、連邦保安官制度が誕生。
アメリカ合衆国憲法発効後の1789年9月24日、初代大統領ジョージ・ワシントンは連邦保安官(U.S. Marshal)13名を任命しました。 連邦保安官職は連邦裁判所の執行と法令遂行を担う最初の司法執行機関として設立されました。 保安官は管区ごとに配置され、罪状の届け出、被告人の拘束、陪審員の召集など幅広い権限を与えられました。 この制度は連邦司法制度の基盤となり、現在もU.S. Marshal Serviceとして運用が続いています。 ワシントンの任命は法の支配を具現化する重要な一歩と評価されています。
1789年 アメリカ大統領 ワシントン 保安官 連邦保安官
1789年

マルティン・ハインリヒ・クラプロートがピッチブレンドから精製した酸化ウランを、新元素であるとプロイセン科学アカデミーで発表。

1789年、クラプロートが酸化ウランを新元素としてプロイセン科学アカデミーで発表。
ドイツの化学者マルティン・ハインリヒ・クラプロートは1789年9月24日、ピッチブレンド(ウラン鉱石)から得られた酸化ウランを新元素のものと発表しました。 彼はこの物質をウランと命名し、後の放射能研究への道を開きました。 クラプロートの発見は化学分析技術の進歩を示すとともに、元素発見の歴史において重要な位置を占めます。 当時の科学アカデミーへの報告は迅速かつ詳細で、多くの研究者に新たな研究対象を提供しました。 ウランは後にピエール・キュリーらにより放射性元素として研究され、その応用は20世紀の科学技術に大きな影響を与えました。
マルティン・ハインリヒ・クラプロート ピッチブレンド ウラン プロイセン科学アカデミー
1794年

ヴァンデの反乱: 第二次ムーティエ・レ・モーファイの戦い。

フランス革命期にヴァンデ地方で起こった王党派の反乱「ヴァンデの反乱」のうち、1794年9月24日に行われた戦いの一つです。
フランス西部のヴァンデ地方で勃発した王党派の大規模反乱「ヴァンデの反乱」は、1793年から1796年にかけて続いた。 第二次ムーティエ・レ・モーファイの戦いは1794年9月24日に行われ、主に共和政府軍と反乱軍が激突した。 その結果、共和政府軍は戦術的な勝利を収め、反乱勢力を一時的に後退させた。 この勝利は中央政府の反乱鎮圧計画を後押しし、最終的には反乱の全面鎮圧へつながった。 戦闘は激戦となり、多くの犠牲者を出したと伝えられる。
1794年 ヴァンデの反乱 第二次ムーティエ・レ・モーファイの戦い 英語版
1812年

アルゼンチン独立戦争: トゥクマンの戦い。

1812年、アルゼンチン独立戦争中に起こったトゥクマンの戦いで、独立軍がスペイン軍に対して決定的な勝利を収めました。
南米アルゼンチンの独立を目指す軍とスペイン王政派の間で繰り広げられた。 ベリャーノ将軍率いる独立軍は、1812年9月24日のトゥクマンの戦いでスペイン軍を撃退し北部内陸部の支配権を確立した。 指揮官マヌエル・ベリャーノ将軍の采配が勝利の鍵となった。 この勝利により独立運動は勢いを増し、同年以降の戦局を有利に展開した。 アルゼンチン独立への道筋を大きく切り開いた歴史的戦闘です。
1812年 アルゼンチン独立戦争 トゥクマンの戦い 英語版