275年

タキトゥスがローマ皇帝に即位。

ローマ帝国でタキトゥスが皇帝に即位し、新たな治世が始まりました。
タキトゥス(マルクス・クラウディウス・タキトゥス)は元老院出身の政治家・学者とされ、前皇帝アウレリアヌスの暗殺を受けて即位しました。彼は東西両帝国の再統合を試みたものの、在位期間は約半年と短命に終わりました。在位中は軍事・行政の立て直しを図り、元老院との関係強化を優先しました。政治的混乱の中で皇帝の権威回復を目指した点が後世の史家にも注目されています。
275年 タキトゥス
1237年

イングランド王ヘンリー3世とスコットランド王アレクサンダー2世によりヨーク条約(Treaty of York)が結ばれる。

イングランドとスコットランドの間で友好条約が締結され、国境の安定が図られました。
1237年9月25日、ヨークでヘンリー3世とアレクサンダー2世が会見し、両国間の領境や通商権を定める条約が結ばれました。このヨーク条約により、ノーサンバランドなど北部地域の帰属が明確化され、長年続いた小規模衝突に一区切りがつきました。条約締結後は比較的平穏な国境線が維持され、両王は内政安定に注力できるようになりました。
1237年 ヘンリー3世 アレクサンダー2世 ヨーク条約 Treaty of York
1347年

フォワ伯ガストン3世によりベルン独立宣言(Déclaration d'indépendance du Béarn)がなされる。

南西フランスのフォワ伯がベアルン地方の独立を宣言しました。
1347年9月25日、フォワ伯ガストン3世はベアルン地方の独立を正式に宣言しました。これは百年戦争の混乱を背景に、地方領主の自治権強化を目指した動きでした。ガストン3世はフランス王権からの距離を置きつつ、地域内部の統治を固めました。この宣言は周辺諸侯との緊張を高め、後の外交交渉や軍事的均衡にも影響を与えました。
1347年 フォワ伯 ガストン3世 ベルン独立宣言 Déclaration d'indépendance du Béarn
観応3年8月17日

光厳上皇の皇子である弥仁王が、継体天皇の先例および孝文皇帝の故実をもとに践祚(後光厳天皇)。治天は西園寺寧子。

弥仁王が後光厳天皇として践祚し、南北朝時代の朝政が動き始めました。
観応3年8月17日(1352年9月25日)に、光厳上皇の皇子である弥仁王が践祚し、後光厳天皇として即位しました。即位の儀礼は継体天皇や中国・唐の孝文帝の例に倣って執り行われ、治天の君には西園寺寧子が任命されました。南北朝時代の複雑な権力構造の中で、上皇と治天の君の力関係調整が重要視されました。後光厳天皇は名目的な天皇として神事を司り、実務は院政と守護大名が担いました。
1352年 観応 8月17日 光厳上皇 弥仁王 継体天皇 孝文皇帝 践祚 後光厳天皇 治天 西園寺寧子
1555年

アウクスブルクの和議が成立。神聖ローマ帝国がルター派を容認。

神聖ローマ帝国がルター派を正式に容認する和議が成立しました。
1555年9月25日、神聖ローマ皇帝カール5世とプロテスタント諸侯はアウクスブルクの和議に調印しました。これにより『領主の宗教は領民の宗教』を定めるカヴェリア制度が法制化され、ルター派の公認が確立しました。宗教戦争を一時的に終結させ、帝国内の政治的安定を図る狙いがありました。しかしプロテスタント内の改革派と妥協派の対立が続き、後の三十年戦争への伏線ともなりました。
1555年 アウクスブルクの和議 神聖ローマ帝国 ルター派
1789年

後の第4代アメリカ合衆国大統領となった下院議員ジェームズ・マディソンによって下院に憲法改正(権利章典(改正1~10条)やアメリカ合衆国憲法修正第27条など)案が提出される。

1789年9月25日、ジェームズ・マディソン下院議員がアメリカ合衆国憲法の権利章典を中心とする修正案を下院に提出した。
ジェームズ・マディソンはアメリカ合衆国憲法制定会議の中心人物であり、この日彼は人権保障を目的とした憲法修正条項案を提案しました。提出された修正案は合計12条からなり、そのうち最初の10条が後に「権利章典」として批准されました。権利章典は表現・信仰・集会の自由などを明確に保障し、アメリカ市民の基本的権利を確立しました。また提出第12条は長らく未批准でしたが、最終的に1992年に27番目の修正条項として成立しました。この行為は連邦政府の権限を制限し、個人の自由を保護する憲政史上の重要な一歩となりました。
1789年 アメリカ合衆国大統領 ジェームズ・マディソン 権利章典 アメリカ合衆国憲法修正第27条
1926年

ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングがカナダ第14代首相に就任。二期目。

1926年9月25日、ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングがカナダ第14代首相に二度目の就任を果たしました。
1926年9月25日、自由党党首であったウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングがカナダ第14代首相に就任し、二期目の政権を開始しました。彼は第一次世界大戦後の社会改革と経済安定化を掲げ、連邦政府と州政府との協調を重視しました。キング政権は財政政策や福祉制度の拡充を進め、平和主義外交でも知られました。この就任により、キングの通算在任期間は16年以上に及び、カナダ史上最長の首相在任記録を築く礎となりました。
1926年 ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング カナダ 首相
1926年

1926年奴隷制条約が署名される。

1926年に国際連盟加盟国が奴隷制廃止を目的とした奴隷制条約に署名しました。
1926年9月25日、国際連盟加盟国を主体とする奴隷制条約(Slavery Convention)がジュネーブで調印されました。この条約は奴隷制度の廃止と人身売買の防止を目的とし、加盟国に法的義務制定を求める初の国際的取り組みでした。条約発効後、各国は奴隷制を禁止する国内法を整備し、人身取引の根絶に向けた措置を講じました。奴隷制条約は国際人権法の先駆けとされ、後の国際契約や条約にも大きな影響を与えています。
1926年奴隷制条約 英語版
1936年

帝国在郷軍人会令公布。私的機関だった帝国在郷軍人会が陸海軍所管の公的機関となる。

帝国在郷軍人会が陸海軍所管の公的機関として制度化された。
1936年(昭和11年)9月25日、帝国在郷軍人会令が公布され、私的団体だった在郷軍人会が正式に陸軍・海軍の管轄下に入りました。 これにより、軍人経験者の組織が国家の戦時動員体制に組み込まれる法的基盤が整備されました。 在郷軍人会は各地で軍事訓練や慰労行事を主催し、住民との連携強化にも寄与しました。 軍部の影響力拡大と国民総動員体制の一環として、政治的・社会的にも重要な役割を担う組織となりました。 戦後は解体されましたが、当時の動きは民間と軍部の関係を理解する上で重要な史料となっています。
帝国在郷軍人会
1949年

ソビエト連邦のタス通信が原子爆弾の保有を認める報道を行う。

ソ連のタス通信が原子爆弾保有を公式に認めた報道を行った日。
1949年9月25日、ソビエト連邦の公式通信社タスが原子爆弾保有を初めて報道しました。 アメリカに次ぐ核保有国としての地位を公に示し、冷戦下の国際政治に大きな衝撃を与えました。 この発表により核戦力の均衡が変化し、西側諸国の安全保障政策に影響を及ぼしました。 ソ連はこれを軍事力増強の成果として国内外にアピールし、プロパガンダ的側面も含まれていました。 世界的な核軍拡競争の始まりを象徴する出来事として歴史に刻まれています。
ソビエト連邦 タス通信 原子爆弾
1955年

ヨルダン空軍成立。

1955年、ヨルダン王国の防空・防衛能力強化の一環としてヨルダン空軍が正式に設立されました。
ヨルダン空軍は1955年9月25日に設立され、創設時には主にイギリスから供与された航空機や訓練支援を受けて編成が進められました。インディペンデンス後の地域情勢を背景に、王国内の防空体制強化が急務とされていました。初期段階では輸送機や偵察機が中心でしたが、次第に戦術機や練習機を導入して戦闘能力を向上させました。空軍の発足はアラブ諸国との協力関係にも影響を与え、後の中東紛争におけるヨルダンの防衛戦略に重要な役割を果たしました。現在のヨルダン空軍は近代化を続け、地域の安定維持に寄与しています。
1955年 ヨルダン空軍
1957年

リトルロック高校事件: リトルロック市長のドワイト・D・アイゼンハワー大統領への要請で派遣された陸軍第101空挺師団の部隊に守られながら黒人学生が登校。

1957年、リトルロック高校事件でアイゼンハワー大統領が連邦軍を派遣し、黒人学生9人の登校を強行しました。
1957年9月25日、アーカンソー州リトルロックのセントラル高校に9人の黒人学生(リトルロック・ナイン)が入学しようとした際、州兵の阻止を受けました。リトルロック市長と州知事オーベル・ファーバスが人種隔離を維持しようとしたため、アイゼンハワー大統領は連邦法執行のため第101空挺師団を連邦軍指揮下に置いて派遣しました。これにより学生たちは軍の護衛を受けながら無事に校内に入ることができ、公立学校の全面的な人種統合が進展しました。事件は公民権運動の象徴的出来事となり、連邦政府の権限と州権の対立を浮き彫りにしました。以降、南部諸州における学校統合に弾みがつき、アメリカの人種差別撤廃に重要な転機をもたらしました。
1957年 リトルロック高校事件 ドワイト・D・アイゼンハワー 大統領