489年
ローマ・ゲルマン戦争: ヴェローナの戦い。
西ローマ帝国とゲルマン系傭兵勢力がヴェローナ近郊で激突した戦いです。古代末期の帝国衰退を象徴する重要な会戦として知られています。
489年、イタリア北部のヴェローナ近郊で西ローマ帝国の正規軍とゲルマン人傭兵勢力が衝突しました。戦いは帝国の防衛線を揺るがす激戦となり、支配権を巡る争いの象徴的事件とされます。ゲルマン人傭兵の台頭とローマ支配の限界を浮き彫りにし、帝国衰退史の一幕を飾りました。戦闘の結果は歴史的資料に残り、後のオストロゴート王国の成立にも影響を与えました。古代末期ヨーロッパの民族移動期を理解する上で欠かせない戦闘です。
489年
ローマ・ゲルマン戦争
英語版
ヴェローナの戦い
1399年
イングランド議会がリチャード2世の廃位とヘンリー4世の王位継承を議決。ランカスター朝が始まる。
1399年、イングランド議会がリチャード2世の廃位とヘンリー4世の王位継承を決定し、ランカスター朝が始まりました。
リチャード2世は王権強化を図る一方で反発を招き、北部貴族らの支持を失っていました。1399年9月30日、議会は王の廃位を議決し、ヘンリー4世(ランカスター公)が新たな国王に選出されました。この政変によりプランタジネット朝の一派であるランカスター朝が開かれ、イングランド王位継承に大きな転換点をもたらしました。新王ヘンリー4世は王権回復と内乱鎮圧を優先し、その後100年戦争半ばの国政にも影響を与えました。ランカスター朝の成立は後の薔薇戦争の遠因ともされる重要な歴史的事件です。
1399年
イングランド
リチャード2世
ヘンリー4世
ランカスター朝
1520年
壮麗王スレイマン1世がオスマン帝国のスルタンに即位。
1520年、壮麗王スレイマン1世がオスマン帝国のスルタンに即位し、帝国は黄金期へと突入しました。
スレイマン1世は1520年9月30日に第10代スルタンとして即位し、『壮麗王』の称号を得ました。彼の治世は法典編纂や行政改革、学術文化の振興が進められ、オスマン帝国は最盛期を迎えます。ハンガリー侵攻や地中海政策を通じて領土を大幅に拡大し、西欧勢力との緊張関係を高めました。建築事業や詩歌の庇護も行い、イスタンブールは文化的中心地としての地位を確立しました。1566年の死去まで約46年間在位し、帝国史上最も影響力の大きい君主の一人とされます。
1520年
壮麗王スレイマン1世
オスマン帝国
スルタン
天文20年9月1日
大寧寺の変: 大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられる。
1551年の大寧寺の変で大内義隆が家臣陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害し、大内氏の勢力が衰退しました。
大内義隆は戦国時代の周防・長門地方に勢力を持つ守護大名として知られていましたが、陶隆房(のちの晴賢)は不満を募らせていました。天文20年9月1日、大寧寺に宿営していた義隆軍に対し陶隆房らが謀反を起こし、義隆は自害に追い込まれました。これにより大内氏の主導権は陶隆房に移り、毛利元就など近隣大名との勢力図が一変します。大寧寺の変は戦国時代における有力守護大名の没落例として注目され、戦国大名間の権力闘争を象徴する事件です。
1551年
天文
9月1日
大寧寺の変
大内義隆
陶隆房(のちの晴賢)
謀反
自害
元亀2年9月12日
織田信長が延暦寺を焼き討ち。
1571年、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちし、宗教勢力の一掃を図りました。
織田信長は延暦寺を拠点とする比叡山勢力を武力で制圧するため、元亀2年9月12日に焼き討ちを敢行しました。僧兵や庶民を巻き込んだ大胆な作戦により、伽藍の大部分が焼失し、多数の死傷者が出ました。この事件は信長の中央集権化政策の一環であり、仏教勢力の政治的影響力を削ぐ狙いがありました。焼き討ちの徹底ぶりは後世に「比叡山焼き討ち」として語り継がれ、信長の苛烈な手法を象徴する出来事となっています。
1571年
元亀
9月12日
織田信長
延暦寺
焼き討ち
1744年
オーストリア継承戦争: マドンナ・デル・オルモの戦い。
1744年、オーストリア継承戦争のイタリア戦線でマドンナ・デル・オルモの戦いが行われました。
オーストリア継承戦争(1740–1748年)中、イタリア北部のマドンナ・デル・オルモ周辺で1744年9月30日に会戦が発生しました。フランス・スペイン連合軍とオーストリア・サルデーニャ同盟軍が衝突し、地域の勢力均衡を左右する小規模ながら戦術的に興味深い戦いとなりました。両軍は山岳地帯での補給線確保を巡り攻防を繰り広げ、多くの死傷者を出しました。戦闘そのものの戦果は限定的でしたが、イタリア戦線での同盟関係の動向を示す重要な資料とされています。ヨーロッパ全体の戦局にも影響を与えた裏面史の一端とも言えます。
1744年
オーストリア継承戦争
マドンナ・デル・オルモの戦い
1791年
モーツァルトの最後のオペラ『魔笛』が初演。
1791年、モーツァルトの最後のオペラ『魔笛』がウィーンで初演されました。
『魔笛』(Die Zauberflöte)はモーツァルトの遺作となったドイツ語の歌劇(ジングシュピール)で、エマヌエル・シカネーダー作の台本による作品です。1791年9月30日にウィーンのフライハウス劇場で初演され、大衆的な演目として瞬く間に人気を博しました。楽曲は民間伝承や啓蒙思想の要素を織り交ぜ、序曲からアリアまで多彩な音楽が楽しめる構成です。特に夜の女王のアリアやパミーナとタミーノのデュエットは高く評価されています。現在も世界各地で上演され続ける不朽の名作として、オペラ史に大きな足跡を残しています。
1791年
モーツァルト
オペラ
魔笛
1791年
フランス革命: 憲法制定国民議会が廃止され、立法議会に引き継がれる。
1791年、フランス革命下で憲法制定国民議会が解散され、立法議会へ移行しました。
憲法制定国民議会は1789年から活動し、1791年6月に憲法を制定しましたが立憲君主制の限界が露呈しました。同年9月30日に議会は解散され、新たに立法議会が発足しました。立法議会は国王ルイ16世の権限を制限しつつ、財政再建や対外戦争への対応を担当しました。議会内部では急進派ジロンド派と穏健派の対立が激化し、後のジャコバン政権成立への布石となります。革命は新たな段階へ入り、国内外に大きな波紋を広げました。
フランス革命
憲法制定国民議会
立法議会
1862年
プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクが議会で「鉄血演説」を行う。
1862年、プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクが「鉄血演説」で国家統一に向けた強硬姿勢を表明しました。
ビスマルクは軍備増強をめぐる財政問題で議会と対立し、9月30日にプロイセン議会で有名な『鉄血演説』を披露しました。彼は『鉄と血によって国家は成し遂げられる』と述べ、軍事力重視のリアリズム外交を強く訴えました。この演説は彼の保守的かつ実践的な国家観を示すもので、後のドイツ統一政策の基礎となりました。ビスマルクは後に『鉄血宰相』と呼ばれ、普墺戦争や普仏戦争を通じてドイツ帝国の成立に大きく寄与します。演説はヨーロッパ列強にも衝撃を与え、19世紀後半の国際政治に影響を及ぼしました。
1862年
プロイセン
オットー・フォン・ビスマルク
鉄血演説
文久3年8月18日
八月十八日の政変が起き、 7人の公家が京都から追放される。(七卿落ち)
1863年の八月十八日の政変で七卿落ちが起こり、公家七人が京都から追放されました。
文久3年(1863年)8月18日、会津・薩摩藩の支援を受けた幕府側が尊王攘夷派公家を標的にクーデターを実行しました。七卿は京都から追放され、長州藩などの公家勢力は一時的に失脚します。これにより朝廷の権威は幕府主導へ傾き、尊皇攘夷運動は暗礁に乗り上げました。その後長州藩は再び勢力を盛り返し、やがて幕府打倒へと進展するきっかけとなります。維新前夜の複雑な政局を象徴する重要事件です。
1863年
8月18日
八月十八日の政変
公家
京都
七卿落ち
1882年
トーマス・エジソンの最初の商用水力発電所ヴァルカン・ストリート・プラントが操業開始。
1882年9月30日、トーマス・エジソンが世界初の商用水力発電所ヴァルカン・ストリート・プラントの運転を開始しました。
エジソンはこれまで直流電力システムの普及に注力しており、ヴァルカン・ストリート・プラントはその一環として建設されました。
この発電所は世界で最初の商用水力発電所とされ、近隣の企業や街灯に電力を供給しました。
水車を用いて安定した電力を生成し、電力インフラの新たな可能性を示しました。
商用電力の供給モデルは後の大規模水力発電所建設の道を開きました。
この成功により、水力を利用した発電技術が世界中で注目を集めました。
1882年
トーマス・エジソン
ヴァルカン・ストリート・プラント
英語版
1888年
切り裂きジャックが第3・第4の殺人。
1888年9月30日夜、ロンドンのホワイトチャペル地区で切り裂きジャックによる第3・第4の連続殺人事件が発生しました。
切り裂きジャックは1888年に連続して5件の殺人を犯し、その正体はいまだ不明です。
第3の犠牲者はエリザベス・ストライド、第4はキャサリン・エドウズで、同夜に相次いで発見されました。
警察の捜査は困難を極め、事件は大きな社会的衝撃を与えました。
メディアは過激な報道を展開し、市民の恐怖心を煽りました。
以来、この一連の事件は犯罪史上もっとも有名な未解決事件の一つとされています。
1888年
切り裂きジャック