1399年
イングランド議会がリチャード2世の廃位とヘンリー4世の王位継承を議決。ランカスター朝が始まる。
1399年、イングランド議会がリチャード2世の廃位とヘンリー4世の王位継承を決定し、ランカスター朝が始まりました。
リチャード2世は王権強化を図る一方で反発を招き、北部貴族らの支持を失っていました。1399年9月30日、議会は王の廃位を議決し、ヘンリー4世(ランカスター公)が新たな国王に選出されました。この政変によりプランタジネット朝の一派であるランカスター朝が開かれ、イングランド王位継承に大きな転換点をもたらしました。新王ヘンリー4世は王権回復と内乱鎮圧を優先し、その後100年戦争半ばの国政にも影響を与えました。ランカスター朝の成立は後の薔薇戦争の遠因ともされる重要な歴史的事件です。
1399年
イングランド
リチャード2世
ヘンリー4世
ランカスター朝
1520年
壮麗王スレイマン1世がオスマン帝国のスルタンに即位。
1520年、壮麗王スレイマン1世がオスマン帝国のスルタンに即位し、帝国は黄金期へと突入しました。
スレイマン1世は1520年9月30日に第10代スルタンとして即位し、『壮麗王』の称号を得ました。彼の治世は法典編纂や行政改革、学術文化の振興が進められ、オスマン帝国は最盛期を迎えます。ハンガリー侵攻や地中海政策を通じて領土を大幅に拡大し、西欧勢力との緊張関係を高めました。建築事業や詩歌の庇護も行い、イスタンブールは文化的中心地としての地位を確立しました。1566年の死去まで約46年間在位し、帝国史上最も影響力の大きい君主の一人とされます。
1520年
壮麗王スレイマン1世
オスマン帝国
スルタン
天文20年9月1日
大寧寺の変: 大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられる。
1551年の大寧寺の変で大内義隆が家臣陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害し、大内氏の勢力が衰退しました。
大内義隆は戦国時代の周防・長門地方に勢力を持つ守護大名として知られていましたが、陶隆房(のちの晴賢)は不満を募らせていました。天文20年9月1日、大寧寺に宿営していた義隆軍に対し陶隆房らが謀反を起こし、義隆は自害に追い込まれました。これにより大内氏の主導権は陶隆房に移り、毛利元就など近隣大名との勢力図が一変します。大寧寺の変は戦国時代における有力守護大名の没落例として注目され、戦国大名間の権力闘争を象徴する事件です。
1551年
天文
9月1日
大寧寺の変
大内義隆
陶隆房(のちの晴賢)
謀反
自害
1791年
フランス革命: 憲法制定国民議会が廃止され、立法議会に引き継がれる。
1791年、フランス革命下で憲法制定国民議会が解散され、立法議会へ移行しました。
憲法制定国民議会は1789年から活動し、1791年6月に憲法を制定しましたが立憲君主制の限界が露呈しました。同年9月30日に議会は解散され、新たに立法議会が発足しました。立法議会は国王ルイ16世の権限を制限しつつ、財政再建や対外戦争への対応を担当しました。議会内部では急進派ジロンド派と穏健派の対立が激化し、後のジャコバン政権成立への布石となります。革命は新たな段階へ入り、国内外に大きな波紋を広げました。
フランス革命
憲法制定国民議会
立法議会
1862年
プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクが議会で「鉄血演説」を行う。
1862年、プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクが「鉄血演説」で国家統一に向けた強硬姿勢を表明しました。
ビスマルクは軍備増強をめぐる財政問題で議会と対立し、9月30日にプロイセン議会で有名な『鉄血演説』を披露しました。彼は『鉄と血によって国家は成し遂げられる』と述べ、軍事力重視のリアリズム外交を強く訴えました。この演説は彼の保守的かつ実践的な国家観を示すもので、後のドイツ統一政策の基礎となりました。ビスマルクは後に『鉄血宰相』と呼ばれ、普墺戦争や普仏戦争を通じてドイツ帝国の成立に大きく寄与します。演説はヨーロッパ列強にも衝撃を与え、19世紀後半の国際政治に影響を及ぼしました。
1862年
プロイセン
オットー・フォン・ビスマルク
鉄血演説
文久3年8月18日
八月十八日の政変が起き、 7人の公家が京都から追放される。(七卿落ち)
1863年の八月十八日の政変で七卿落ちが起こり、公家七人が京都から追放されました。
文久3年(1863年)8月18日、会津・薩摩藩の支援を受けた幕府側が尊王攘夷派公家を標的にクーデターを実行しました。七卿は京都から追放され、長州藩などの公家勢力は一時的に失脚します。これにより朝廷の権威は幕府主導へ傾き、尊皇攘夷運動は暗礁に乗り上げました。その後長州藩は再び勢力を盛り返し、やがて幕府打倒へと進展するきっかけとなります。維新前夜の複雑な政局を象徴する重要事件です。
1863年
8月18日
八月十八日の政変
公家
京都
七卿落ち
1895年
マダガスカルがフランスの保護領になる。
1895年9月30日、マダガスカルはフランスの保護領としての地位を認められました。
フランスは19世紀後半からマダガスカルへの影響力を強め、最終的に保護領化を進めました。
この保護領化により、マダガスカル侯国は事実上フランスの支配下に置かれました。
地元政権は形式的に存続したものの、実権はフランス政府が握りました。
農産物の輸出拡大やインフラ整備が進む一方、伝統的な社会構造にも大きな変化が生じました。
この出来事は後の完全併合への前兆となりました。
1895年
マダガスカル
フランス
1910年
韓国併合: 李氏朝鮮の首都であった漢城府が京城府に改称される。
1910年9月30日、韓国併合に伴い李氏朝鮮の首都漢城府が京城府と改称されました。
1910年の韓国併合条約により、朝鮮半島は日本の統治下に入りました。
従来の漢城府は日本式の行政区画として京城府に名称が変わりました。
日本政府はこれを機に道路や鉄道などインフラ整備を進めました。
一方で朝鮮語教育の制限や土地所有権の再編など、社会変革も強制されました。
この改称は植民地支配の象徴として後世に語り継がれています。
1910年
韓国併合
李氏朝鮮
首都
京城府
1921年
婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約が国際連盟で採択・署名される。
1921年9月30日、婦人及児童の売買禁止に関する国際条約が国際連盟で採択・署名されました。
人身売買や性的搾取を防止するため、国際連盟はこの条約を採択しました。
加盟国は条約の締結後、国内法を整備して婦人及び児童の売買を禁止する義務を負いました。
当時は国際的な人権保護の先駆けとされ、各国で法制度改革が進みました。
女性団体や慈善団体の活動と連携し、被害者の救済や啓発も行われました。
この条約は後の国際人権法の基礎の一つと位置づけられています。
1921年
婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約
国際連盟
1938年
ミュンヘン会談の結果、イギリス・フランスがナチス・ドイツのズデーテン地方併合を容認。
1938年9月30日、ミュンヘン会談でイギリスとフランスがズデーテン地方の併合を承認しました。
1938年9月、チェンバレン英首相とダラディエ仏首相はヒトラーとの会談に臨みました。
会談の結果、チェコスロバキア政府は参加せずにズデーテン地方併合が決定されました。
英仏両国はこれを『平和のための譲歩』と位置づけ、ドイツの膨張を抑える狙いでした。
しかしこの合意はヒトラーを勢いづかせ、翌年の第二次世界大戦勃発を招く遠因となりました。
歴史的には宥和政策の失敗例として知られています。
1938年
ミュンヘン会談
イギリス
ナチス・ドイツ
ズデーテン地方
1939年
ヴワディスワフ・シコルスキがポーランド亡命政府の初代首相に就任。
1939年9月30日、ヴワディスワフ・シコルスキがポーランド亡命政府初代首相に就任しました。
ドイツとソ連によるポーランド侵攻後、政府はロンドンへ移転し亡命政権を樹立しました。
シコルスキは軍人出身であり、首相および軍最高司令官として指導力を発揮しました。
彼は連合国との連携強化に尽力し、ポーランド軍の再編成を進めました。
亡命政権は自由ポーランドを名乗り、戦後の復興と独立回復を目指しました。
シコルスキの指導はポーランド人の士気を支える重要な柱となりました。
1939年
ヴワディスワフ・シコルスキ
ポーランド亡命政府
首相
1943年
第二次世界大戦: 御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定。絶対国防圏を定める。
御前会議で今後の戦争指導大綱が決定され、絶対国防圏を定めた日。
1943年9月30日、第二次世界大戦中の日本で皇居において御前会議が開催された。この会議では「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」が決定され、国家総力戦体制の具体化が図られた。同時に絶対国防圏が定められ、本土防衛の範囲と戦略が公式に示された。これにより軍需生産や動員計画が強化され、国民生活にも大きな影響を及ぼした。戦局が厳しさを増す中で、政府・軍部の統制が一層強化された重要な節目となった。
1943年
第二次世界大戦
御前会議
絶対国防圏