1852年
オーストラリア最古の大学であるシドニー大学が開学。
オーストラリアで最も古い大学、シドニー大学が開学した日。
1852年10月11日、オーストラリア初の大学として設立されたシドニー大学が正式に開学しました。英国の影響下で設立されたこの大学は、法律、医学、文学など幅広い学術分野を提供し、植民地社会の知的基盤を築きました。開学当初の学生数はわずか24名でしたが、徐々に規模を拡大。学術研究の中心としてだけでなく、オーストラリアにおける教育制度の礎となりました。その後も世界的に高い評価を受ける研究成果を生み出し続けています。
1852年
オーストラリア
シドニー大学
1865年
ジャマイカ事件。ジャマイカでポール・ボーグルと黒人200人以上が暴動。
ジャマイカで黒人解放を求めるモーラント・ベイ暴動が勃発した日。
1865年10月11日、ジャマイカのモーラント・ベイでバプテスト派の牧師ポール・ボーグルが率いる黒人農民と自治体役人との衝突から暴動が発生しました。ボーグルらは年金未払い、土地権問題、差別的税制などへの抗議として蜂起。暴動は鎮圧され、多数の参加者が処刑または懲役刑に処されました。この事件はイギリス植民地政府の厳しい対応が国内外から批判を浴び、人種関係や植民地政策の改革を促す契機となりました。
1865年
ジャマイカ事件
ポール・ボーグル
1945年
マッカーサー司令官が幣原喜重郎首相に「五大改革」(秘密警察の廃止・労働組合の結成奨励・婦人の解放・教育の自由化・経済の民主化)を指令。
日本の戦後改革を指導したマッカーサー司令官が、幣原首相に五大改革を指令しました。
1945年10月11日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは日本の首相・幣原喜重郎に対して「五大改革」の実施を命じました。
この五大改革とは、秘密警察の廃止、労働組合結成の奨励、婦人の政治的解放、教育の自由化、経済の民主化を指します。
これにより戦前の国家主義的統制から脱却し、民主的な政治・社会制度の構築が目指されました。
特に婦人参政権の付与や労働運動の自由化は、戦後日本の社会構造に大きな変化をもたらしました。
教育の自由化では軍国主義教育の撤廃と学問の独立が進み、経済面では財閥解体などが制度化されていきました。
これらの改革は日本国憲法制定や占領政策の基礎となり、現代日本社会の形成に欠かせない要素となりました。
1945年
マッカーサー司令官
幣原喜重郎
五大改革
1946年
上野駅前で引揚者らが店舗を開設。上野アメ横の起こり。
終戦直後、上野駅前で引揚者たちが露店を開き、上野アメ横の原点が生まれました。
1946年10月11日、太平洋戦争からの引揚者や闇市商人たちが上野駅前に臨時の物資販売所を開設しました。
不足する食料や日用品を米軍の払い下げ品などで販売し、戦後混乱期の生活を支える場となりました。
これが現在の「アメヤ横丁」(アメ横)の起源とされ、多彩な屋台や商店街が形成されていきました。
1950年代以降、商店組合が整備され、安価な衣料品や食品、雑貨を求める人々で賑わう市場へと発展しました。
現在も観光名所として国内外から多くの人が訪れ、戦後日本の復興と食文化の歴史を感じさせる場所です。
1946年
上野駅
引揚者
上野アメ横
1947年
ヤミ米を拒否し配給食糧による生活を守った東京地裁の山口良忠判事が栄養失調で死亡。
東京地裁の山口良忠判事が闇米を拒否し、配給食糧だけの生活で栄養失調の末に死亡しました。
1947年10月11日、東京地方裁判所の判事・山口良忠は闇米(違法に流通する米)を一切拒否し、配給制度による米のみで生活することを選びました。
当時の日本は食糧難と闇市の横行が深刻で、多くの国民が質の低い食料を強いられていました。
山口判事は法と道徳を貫く姿勢を示そうとした結果、栄養失調となり31歳で亡くなりました。
彼の行動は公職者の倫理と奉仕精神を象徴するエピソードとして広く伝えられています。
今日では限られた資源の中で正義を守る難しさを考えさせる教訓として語り継がれています。
1947年
山口良忠
1994年
成田空港問題円卓会議で、国と反対派が学識経験者による調停案を受入れ。計12回の円卓会議が終了。(成田空港問題)
On October 11, 1994, the government and opposition groups accepted an academic mediation plan at the Narita Airport roundtable, concluding 12 sessions.
The Narita Airport dispute had persisted for decades as local farmers and activists protested land expropriation and environmental impacts. Through twelve roundtable meetings facilitated by scholars, both sides worked toward a compromise. The acceptance of the mediation plan on October 11, 1994, marked a turning point, allowing construction to proceed with revised compensation and environmental safeguards. This agreement eased longstanding tensions and set a precedent for resolving large-scale infrastructure conflicts through dialogue. Narita Airport would later open as a key international gateway to Japan.
1994年
成田空港問題円卓会議
成田空港問題
2008年
ロス疑惑で審理中の三浦和義がロサンゼルスへの身柄移送当日に自殺。
2008年10月11日、ロス疑惑の審理のためロサンゼルスへ移送される予定だった三浦和義が、移送当日にホテルで自ら命を絶った。
2008年10月11日、元プロ野球選手の三浦和義はロス疑惑の審理のためロサンゼルスへ移送される予定だった。移送当日のホテルにて三浦は首をつって自殺を図り、死亡が確認された。三浦は2007年に強制わいせつ容疑で逮捕され、その後保釈されて裁判を継続していた。事件は日米間の法的手続きや被疑者の精神的負担に関する議論を呼び起こした。自殺の背景にはメディア報道の重圧や将来への不安が影響したと考えられている。
ロス疑惑
三浦和義
ロサンゼルス
自殺
2011年
大津いじめ自殺事件: 滋賀県大津市で、市立皇子山中学校2年生の男子生徒(当時14歳)が同級生からのいじめを苦に自宅マンションから飛び降り自殺。
2011年10月11日、滋賀県大津市の中学生がいじめを苦に自宅マンションから飛び降り自殺した深刻な事件。
2011年10月11日、滋賀県大津市の市立皇子山中学校に通う2年生の男子生徒(当時14歳)が、自宅マンションから飛び降り自殺した。遺書などは見つかっておらず、学校内でのいじめが自殺の要因とされた。いじめはクラスメイトからの暴言や暴行が含まれており、長期間にわたって続いていた。事件は全国に大きな衝撃を与え、いじめ防止対策の強化や児童生徒の安全確保の重要性が改めて認識された。その後、学校現場でのいじめ対策ガイドラインが見直され、法的整備の議論も進んだ。
2011年
大津いじめ自殺事件
滋賀県
大津市
市立皇子山中学校
いじめ
飛び降り