1216年
イングランド王ジョンが死去し、9歳のヘンリー3世が即位。
イングランド王ジョンが死去し、僅か9歳のヘンリー3世が即位しました。
1216年10月19日、イングランド王ジョンが死去しました。在位中にマグナ・カルタの承認などの改革を行ったものの貴族との対立が続き、国政は混乱します。幼少のヘンリー3世が即位したことで摂政による統治が始まり、王権回復を巡る貴族勢力との調整が大きな課題となりました。その後の長期在位でフランスとの戦争や内政問題に直面し、イングランド史の重要な転換点となった王位継承です。
1216年
イングランド
ジョン
ヘンリー3世
1469年
アラゴン王太子フェルナンド(後のアラゴン王フェルナンド2世)とカスティーリャ女王イサベル1世が結婚。1479年のフェルナンドの王位継承により、両国は統合してスペイン王国となる。
アラゴン王太子フェルナンドとカスティーリャ女王イサベルが結婚し、スペイン統合の基礎が築かれました。
1469年10月19日、アラゴン王太子フェルナンドとカスティーリャ女王イサベル1世が結婚しました。この結婚はイベリア半島の二大王国を事実上統一する第一歩となり、1479年にフェルナンドの即位で正式にスペイン王国が成立します。両君主はレコンキスタの完遂や新航路開拓、宗教政策など多方面で協力し、近代スペインの礎を築きました。ヨーロッパ列強の一員として台頭していく契機を生んだ歴史的イベントです。
1469年
アラゴン
フェルナンド
カスティーリャ
イサベル1世
スペイン
1789年
ジョン・ジェイが初代アメリカ合衆国最高裁判所長官に就任。
ジョン・ジェイが初代アメリカ合衆国最高裁判所長官に就任しました。
1789年10月19日、ジョン・ジェイがアメリカ合衆国最高裁判所の初代長官に就任しました。同年成立した連邦司法法により最高裁の権限と組織が規定され、ジェイはその運営に中心的役割を果たします。独立宣言起草委員としての経験を生かし、連邦主義者として司法制度の基盤整備や法解釈に貢献しました。在任期間中に確立された前例は、後のアメリカ司法権の発展に大きな影響を与えました。
1789年
ジョン・ジェイ
アメリカ合衆国最高裁判所
1878年
ドイツで社会主義者鎮圧法制定。
1878年、ドイツ帝国でビスマルク政権が社会主義者鎮圧法を制定しました。
社会民主党や労働組合を抑え込むための法令として制定され、出版や集会の自由が制限されました。多くの社会主義系新聞が発禁処分となり、指導者たちが弾圧されました。この法律はドイツの社会主義運動を弱体化させる一方で、運動の地下化を促す結果となりました。法令は何度も延長され、最終的に1890年に廃止されるまで約12年間適用されました。
1878年
社会主義者鎮圧法
1900年
日本で伊藤博文が第10代内閣総理大臣に就任し、第4次伊藤内閣が発足。
1900年、第4次伊藤内閣が発足し、伊藤博文が第10代内閣総理大臣に就任しました。
明治33年10月19日、伊藤博文が第4次内閣を組織し、第10代内閣総理大臣として政府を率いました。彼は立憲政治の確立や外交関係の強化に尽力し、日本の近代国家建設に大きな影響を与えました。内閣では教育制度の整備や財政改革にも着手し、国家基盤の強化を図りました。この内閣は短命でしたが、伊藤の政策や指導力は後世にも多大な足跡を残しました。
1900年
伊藤博文
内閣総理大臣
第4次伊藤内閣
1921年
ポルトガルのリスボンでクーデター。首相アントニオ・グランジョらが死亡。
1921年、ポルトガル・リスボンでクーデターが発生し、首相アントニオ・グランジョらが暗殺されました。
第一次ポルトガル共和国期の混乱期に当たる1921年10月19日、リスボンで軍部と政敵のクーデターが勃発しました。首相アントニオ・グランジョをはじめ政府要人が標的となり、多くが暗殺されました。この事件は「リスボンの大虐殺」とも呼ばれ、政治的不安定を象徴する出来事となりました。共和国政府は再建を図るも、度重なる暗殺や陰謀により政情はさらに混迷を深めました。
1921年
ポルトガル
リスボン
アントニオ・グランジョ
英語版
1925年
中華民国(北京政府)駐墺公使黄栄良がウィーンでオーストリア外相マタヤと新しく平等な条約である中墺通商条約を締結する。
1925年、中華民国駐墺公使の黄栄良がウィーンでオーストリアと中墺通商条約を締結しました。
1925年10月19日、北京政府を代表する駐墺公使黄栄良がウィーンでオーストリア外相マタヤと平等な立場を保つ中墺通商条約を調印しました。これは中華民国が列強と結ぶ最初期の実質的平等条約の一つとされます。関税自主権や通商権の保障などが盛り込まれ、中国の国際的地位向上に寄与しました。締結後、中国は欧州諸国との関係強化を進める足がかりを得ました。
1925年
中華民国
北京政府
墺
黄栄良
中国語版
ウィーン
オーストリア
マタヤ
ドイツ語版
1933年
ドイツが国際連盟から脱退。
1933年、ナチス政権下のドイツが国際連盟を脱退しました。
1933年10月19日、アドルフ・ヒトラー率いるナチス政府は国際連盟脱退を宣言し、正式に加盟を解消しました。これはヴェルサイユ体制からの離脱と再軍備政策を示す行動であり、国際協調路線の破綻を象徴しました。脱退後のドイツは極端な軍備拡張を進め、ヨーロッパ情勢を世界大戦へと向かわせる一因となりました。国際連盟はドイツを非難したものの、実効的な制裁手段を欠いていました。
1933年
ドイツ
国際連盟
1948年
第2次吉田茂内閣が成立する。
占領下の日本で吉田茂が率いた第二次内閣が成立した日。経済復興と憲法施行の重要期を迎えました。
1948年10月19日、吉田茂を首相とする第二次吉田内閣が成立した。当時の与党は自由党を中心とし、連立体制を構築していた。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導の下、日本国憲法の施行が進む中での政権運営であった。この内閣は戦後の経済復興に重点を置き、いわゆる「吉田ドクトリン」の基礎を築いた。外交面では米国との安全保障協力を重視し、国内では社会資本整備や財政再建に取り組んだ。約4カ月後の1949年2月に内閣改造が行われ、その後第三次内閣へと移行した。
1948年
第2次吉田茂内閣
1956年
モスクワで、日本の鳩山一郎首相とソビエト連邦のブルガーニン首相が「日ソ国交回復の共同宣言(日ソ共同宣言)」に調印し、日本とソ連の国交が回復した。
鳩山一郎首相とブルガーニン首相がモスクワで共同宣言に署名し、日ソ間の国交が回復した日。戦後の国交正常化に向けた画期的な一歩です。
1956年10月19日、モスクワにおいて日本の鳩山一郎首相とソ連のニコライ・ブルガーニン首相が日ソ共同宣言に調印した。この宣言により、第二次世界大戦後11年間続いた日ソ間の国交断絶が正式に解消された。主な内容には両国間の戦争状態の終結、領土問題の協議開始、経済および文化交流の促進が盛り込まれている。日本はサンフランシスコ平和条約にソ連が署名しなかったことによる戦後処理の遅れに対し、この宣言が解決の糸口となった。宣言調印により多くの抑留者の帰国が実現し、両国間の人的交流が本格的に再開された。冷戦下の東西対立の中で外交的勝利と評価される。
1956年
モスクワ
鳩山一郎
ソビエト連邦
ブルガーニン
日ソ共同宣言
1974年
ニュージーランドの属領ニウエが内政自治権を獲得し、ニュージーランドとの自由連合国となる。
ニュージーランドの自由連合国としてニウエが内政自治権を獲得した日。島民の自治が尊重される新たな一歩でした。
1974年10月19日、南太平洋のニウエがニュージーランドとの自由連合関係を結び、内政自治権を獲得した。これによりニウエ政府は立法や行政運営に関する権限を手に入れ、地域の意思決定を自ら行えるようになった。外交および防衛は引き続きニュージーランドが担当しつつ、経済・文化政策はニウエ側が主導する仕組みが確立された。教育や医療、インフラ整備など島民の日常生活に直結する政策を地元政府が策定できるようになり、住民の生活水準向上に貢献した。現在でも特殊な政治形態として国際的に注目され、ニュージーランドと強固なパートナーシップを維持している。
1974年
ニュージーランド
ニウエ
自由連合国
1984年
カトリック教会の司祭、イエジ・ポピエウシュコがポーランド公安部によって暗殺。
1984年10月19日、ポーランドのカトリック司祭イエジ・ポピエウシュコが国家保安局に誘拐され暗殺されました。
イエジ・ポピエウシュコ神父は連帯(Solidarność)運動を支援し、政府批判の説教で知られていました。1984年10月19日夜、ワルシャワ近郊で国家保安局の捜査官に誘拐され、拷問の末に殺害されました。遺体はヴィスワ川岸で発見され、国内外に衝撃を与えました。この事件は反体制運動を活性化させ、後に捜査官らが有罪判決を受けるなど、ポーランドの民主化に大きな影響を与えました。
1984年
カトリック教会
司祭
イエジ・ポピエウシュコ
ポーランド