紀元前202年
ザマの戦いで、大スキピオ率いるローマ軍が、ハンニバル率いるカルタゴ軍を破り、第二次ポエニ戦争が終結する。
ザマの戦いでローマ軍がカルタゴ軍を破り、第二次ポエニ戦争が終結しました。
紀元前202年10月19日、ローマの名将スキピオ・アフリカヌス率いるローマ軍がザマでカルタゴ軍を撃破しました。ハンニバル・バルカが率いたカルタゴ軍との激戦はローマ騎兵の決定的攻撃で決着し、カルタゴの地中海覇権は失われました。この勝利によりローマ共和国は西地中海の支配を確立し、後の帝国化への道を開く重要な転換点となりました。
紀元前202年
ザマの戦い
大スキピオ
ハンニバル
第二次ポエニ戦争
1453年
フランス王シャルル7世がボルドー入城。これを以てイングランドとの百年戦争が終結。
フランス王シャルル7世がボルドーに入城し、百年戦争が終結しました。
1453年10月19日、シャルル7世率いるフランス軍がボルドーを開城させました。これにより1337年に始まった英仏間の百年戦争は事実上の終焉を迎えます。イングランドはフランス大陸領土の大半を失い、ヨーロッパにおける影響力が後退しました。フランスは中央集権化を加速させ、後の近代国家形成の礎を築きます。中世ヨーロッパ政治地図を一変させた歴史的出来事です。
1453年
フランス
シャルル7世
ボルドー
百年戦争
1466年
第二次トルンの和約によりプロイセン同盟とドイツ騎士団国との間の十三年戦争が終結。
第二次トルンの和約により、十三年戦争が終結しました。
1466年10月19日、ポーランド王国とプロイセン同盟がドイツ騎士団国との間で第二次トルンの和約を締結し、1454年に始まった十三年戦争は終結しました。条約により騎士団はポーランド王の封臣となり、領土の大部分を失います。ポーランドはバルト海沿岸への影響力を強め、中欧での地政学的地位を向上させました。またプロイセン同盟の諸都市は自治権を拡大し、地域の安定と繁栄に寄与しました。
1466年
第二次トルンの和約
プロイセン同盟
ドイツ騎士団
十三年戦争
慶長3年9月19日
慶長の役・順天城の戦いが始まる。
慶長の役・順天城の戦いが始まりました。
1598年10月19日(慶長3年9月19日)、豊臣秀吉の指導下で行われた慶長の役の一環として順天城の戦いが勃発しました。朝鮮側と明軍の連合は城を守るために激しく抵抗し、日本軍は厳しい地形と補給難に直面します。戦闘は数日にわたって続き、塹壕戦や夜襲も見られる熾烈さを帯びました。最終的に日本軍は撤退を余儀なくされ、慶長の役終結への流れに影響を与えました。
1598年
慶長
9月19日
慶長の役
順天城の戦い
1781年
ヨークタウンの戦いでイギリス軍が降伏し、アメリカ独立戦争が終結。
ヨークタウンの戦いでイギリス軍が降伏し、アメリカ独立戦争が終結しました。
1781年10月19日、ジョージ・ワシントン率いるアメリカ独立軍とフランス軍が連合し、ヨークタウンを包囲してイギリスのチャールズ・コーンウォリスを降伏させました。この勝利によりパリ条約締結への道が開かれ、アメリカ合衆国の独立が国際的に承認されます。戦後、戦費負担や領土問題を巡る交渉が行われ、ヨーロッパ列強の勢力均衡に影響を与えました。独立戦争を決定づけた歴史的勝利です。
1781年
ヨークタウンの戦い
アメリカ独立戦争
1812年
1812年ロシア戦役: ナポレオンのフランス軍がモスクワからの撤退を開始。
ナポレオンのフランス軍がモスクワからの撤退を開始しました。
1812年10月19日、ナポレオン率いる大陸軍はモスクワでの占領を断念し、本格的なロシア撤退を開始しました。厳冬の到来と補給線寸断により軍は甚大な被害を受け、食糧難と疲弊が兵士を苦しめます。ロシア軍の追撃と焦土戦術がフランス軍を追い詰め、戦力は急速に削られました。この撤退はナポレオン戦争全体の転換点となり、ヨーロッパ連合軍の反攻を許す決定的要因となりました。
1812年
1812年ロシア戦役
ナポレオン
モスクワ
1864年
南北戦争: シーダークリークの戦い。
南北戦争のシーダークリークの戦いが行われました。
1864年10月19日、アメリカ南北戦争におけるシーダークリークの戦いがバージニア州で勃発しました。南軍の奇襲により北軍が一時後退しますが、フィリップ・シェリダン少将率いる北軍の迅速な反撃で戦局は逆転します。この勝利により北軍はシェナンドー渓谷の制圧を確立し、南軍の重要な補給線を断ち切りました。戦略的成功はリンカーン大統領の再選運動にも大きな追い風となりました。
1864年
南北戦争
シーダークリークの戦い
1935年
第二次エチオピア戦争: 国際連盟でイタリアを侵略者とする採択を可決し、イタリアに対する経済制裁を開始。
1935年、国際連盟総会でイタリアを侵略者と認定し、エチオピア侵略に対する経済制裁を開始しました。
1935年10月19日、第二次エチオピア戦争を巡り、国際連盟総会はイタリアを侵略者とする決議を可決しました。これにより石油禁輸などの経済制裁が科されましたが、主要国の協力不足や抜け道により制裁効果は限定的でした。制裁発動は国際連盟の集団安全保障の試みを示す一方で、その実効性の限界も露呈しました。結果として、戦争は長期化し、国連設立の教訓にもつながりました。
1935年
第二次エチオピア戦争
イタリア
経済制裁
1972年
フィリピン・ルバング島で地元警察が元日本兵2人を発見し銃撃戦に。小塚金七元上等兵が死亡、小野田寛郎元少尉は逃走。
ルバング島で発見された元日本兵との銃撃戦が発生し、小塚金七が戦死、小野田寛郎は逃亡した日。終戦後も続いた個人戦争の象徴的な事件です。
1972年10月19日、フィリピンのルバング島で現地警察が日本兵の元上等兵小塚金七と元少尉小野田寛郎を発見し、銃撃戦となった。小塚は交戦中に負傷し死亡し、小野田は逃走してジャングルに潜伏を続けた。小野田寛郎は約29年間にわたり現地で帰還せず、生存が長らく不明とされた。1974年に投降した際には国内外に大きな衝撃を与え、戦争の後遺症と個人の葛藤を象徴する出来事として語り継がれている。終戦後に残された「最後の兵士」として報じられた小野田の逸話は、多くの書籍やドキュメンタリーで取り上げられている。
1972年
フィリピン
ルバング島
小野田寛郎
1983年
グレナダ首相モーリス・ビショップと閣僚・支持者が、バーナード・コード率いるクーデター軍により処刑。
1983年10月19日、グレナダの首相モーリス・ビショップと支持者らがクーデターにより公開処刑されました。
モーリス・ビショップは1979年の革命後に首相に就任し、社会主義政策を推進していました。しかし、党内対立が深まった結果、1983年10月19日にバーナード・コード派がクーデターを敢行。ビショップ首相と支持者はセントジョージの内務省に軟禁された後、軍用施設付近で処刑されました。この事件は地域の不安定化を招き、翌月のアメリカやカリブ共同体による介入(プランテーション作戦)へとつながりました。
1983年
グレナダ
モーリス・ビショップ