建興4年11月12日

西晋が滅亡する。

316年、西晋最後の皇帝が捕らえられ王朝が崩壊し、五胡十六国時代が始まりました。
316年、西晋最後の皇帝が捕らえられ王朝が崩壊し、五胡十六国時代が始まりました。 当時、内乱や外敵の侵攻で弱体化していた西晋は建興4年(316年)11月に洛陽を奪われ、皇帝は処刑されました。 約一世紀にわたって続いた王朝は滅亡し、華北は異民族による諸王朝の興亡が相次ぐ混乱期へと突入しました。 この出来事は中国史における重要な政治的転換点とされ、後の統治体制にも影響を及ぼしました。 現在も洛陽の遺跡からは当時の動乱を物語る遺物が発見され続けています。
316年 建興 11月12日 西晋
1787年

ペンシルベニア州がアメリカ合衆国憲法を承認し、アメリカ合衆国2番目の州となる。

ペンシルベニア州が合衆国憲法を批准し、連邦組織の第2州となりました。
1787年12月12日、ペンシルベニア州はアメリカ合衆国憲法を正式に承認しました。 これにより州は13植民地中2番目に連邦に加盟し、合衆国政治の構造確立に寄与しました。 フィラデルフィアでの議会で州代表は憲法支持派が多数を占め、議論の末に批准が決定されました。 同州の経済・人口規模は大きく、合衆国の初期政策形成に強い影響力を及ぼしました。 承認に伴い、州政府は連邦法と州法の調整に着手し、合衆国統合の先導役を担いました。
1787年 ペンシルベニア州 アメリカ合衆国憲法 アメリカ合衆国
1911年

イギリス支配下のインド帝国がコルカタ(カルカッタ)からニューデリーに遷都。

インド帝国の首都がコルカタからニューデリーに正式に移されました。
1911年12月12日、英国統治下のインド帝国は公式にコルカタからニューデリーへの遷都を実施しました。 これは英王ジョージ5世が出席したデリー王大冠礼に合わせた政治的演出でもありました。 新首都ニューデリーは設計者エドウィン・ルティエンスらによる壮大な都市計画のもと建設が進められました。 行政庁舎やレジデンシーが整備され、将来的にインド統治の中心として機能することが期待されました。 遷都は文化的にも画期的で、英国式とインド様式が融合した建築美が象徴となりました。
1911年 インド帝国 コルカタ ニューデリー 遷都
1915年

中華民国大総統袁世凱が皇帝に即位、元号は洪憲とし、国号は中華帝国に改称。

袁世凱が中華民国大総統から皇帝に即位し、洪憲元号の下に中華帝国を樹立した事件。
1915年12月12日、中華民国初代大総統袁世凱が皇帝に即位を宣言。 元号を「洪憲」、国号を「中華帝国」に改称し、帝政復古を図った。 しかし国内外の反発や軍閥の反乱が相次ぎ、わずか83日で退位に追い込まれた。 この試みは近代中国の政治混乱を象徴する出来事として知られる。
1915年 中華民国大総統 袁世凱 皇帝 元号 洪憲 中華帝国
1925年

イランの議会がレザー・パフラヴィーの皇帝即位を議決。

イランの議会がレザー・パフラヴィーの皇帝即位を決議し、パフラヴィー朝が成立。
1925年12月12日、イランの議会(マジュレス)はパフラヴィー将軍ことレザー・パフラヴィーをシャー(皇帝)に選出。 これにより、カジャール朝に代わってパフラヴィー朝が正式に成立。 国内の近代化路線を推進し、中央集権体制を強化する契機となった。 新王朝はその後のイラン社会に大きな影響を与えた。
1925年 イランの議会 レザー・パフラヴィー
1941年

第二次世界大戦: 支那事変(日中戦争)からの一連の戦争を総称して「大東亜戦争」と呼ぶとする閣議決定が発表。

閣議決定により、日中戦争を含む一連の戦争を『大東亜戦争』と呼称することが定められた。
1941年12月12日、日本政府は閣議を開き、支那事変以来の東アジアでの戦争を総称して「大東亜戦争」と呼ぶと決定。 この名称は戦争の正当化と国民統合を図るプロパガンダの一環として用いられた。 以降、公式文書や報道では「大東亜戦争」が多用され、戦後の歴史認識にも影響を及ぼした。 戦後の国際社会では「第二次世界大戦」の一部と位置づけられている。
支那事変 戦争 大東亜戦争 閣議
1945年

GHQが、『忠臣蔵』などの仇討ち・心中物の芝居の上演禁止を指令。

1945年12月12日、GHQが日本の仇討ちや心中物の伝統的な芝居上演を禁止する指令を発しました。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は戦後日本の民主化・非軍国主義化政策の一環として、『忠臣蔵』など仇討ちや心中を描く時代劇作品の上演を禁止しました。これにより歌舞伎や人形浄瑠璃を含む伝統演劇は大きな打撃を受け、脚本の改変や上演停止を余儀なくされました。文化統制として批判もあった一方で、戦争を煽動する劇の排除という意図がありました。禁止措置は占領期の数年間続き、戦後日本の演劇界に深い影響を与えました。
1945年 GHQ 忠臣蔵 仇討ち 心中 芝居
1947年

児童福祉法公布。

1947年12月12日、日本で児童福祉法が公布され、児童保護の法的枠組みが整備されました。
GHQの影響下で制定された児童福祉法は、児童の最善の利益を守ることを目的とした日本初の包括的な福祉法です。家庭や学校、施設における児童の保護、養育、指導、その他必要な支援を国や地方自治体に義務付けました。児童相談所の設置や里親制度の導入など、具体的な施策が盛り込まれています。この法律は戦後復興期の社会福祉の基盤を築き、現在の児童福祉施策の礎となっています。
1947年 児童福祉法
1956年

日本の国連加盟が国際連合安全保障理事会決議121の全会一致で決定。

1956年12月12日、日本の国連加盟が安全保障理事会決議121で全会一致により決定されました。
第二次世界大戦後、占領下にあった日本は国際社会への復帰を目指していました。1956年12月12日、国際連合安全保障理事会は日本の加盟を勧告する決議121を全会一致で採択。これにより、翌1957年9月に日本は正式に国連に加盟しました。加盟決定は日本の国際的信用回復と平和国家としての歩みを象徴する重要な転機となりました。外交関係の再構築が進み、国際舞台での日本の役割が大きく広がりました。
1956年 日本 国連 国際連合安全保障理事会決議121
1958年

ギニアが国連に加盟。

1958年12月12日、西アフリカのギニアが国際連合に加盟しました。
フランスからの独立を果たしたギニアは、アフリカでいち早く国連への加盟を申請しました。1958年12月12日に国連総会で承認され、正式加盟国となります。冷戦下、非同盟運動の先駆けとしての立場を強調したギニアの加盟は、アフリカ諸国の国際舞台への参加を促す契機ともなりました。独立直後の新興国家が世界的な組織に加わったことは、アフリカ独立運動全体に大きな影響を与えました。
1958年 ギニア
1961年

旧日本軍将校らによるクーデター計画が発覚(三無事件)。

1961年12月12日、旧日本軍将校らによるクーデター計画『三無事件』が発覚しました。
戦後の混乱期に旧陸軍将校らが中心となって政府転覆を企てた『三無事件』が摘発されました。計画は無政府主義、無産階級政権の樹立などを掲げていたため『三無』と呼ばれています。警察当局は計画の初期段階で情報を掴み、多数の関係者を逮捕しました。裁判では陰謀罪が適用され、指導者らは有罪判決を受けています。事件は新生日本の政治体制を揺るがす企てとして大きな衝撃を与えました。
日本軍 クーデター 三無事件
1963年

ケニアがイギリスから独立。

1963年12月12日、ケニアがイギリスから独立しました。
1960年代のアフリカ独立運動の一環としてケニアは長年の英領支配から解放されました。祝典には初代首相ジョモ・ケニヤッタが出席し、国家としての歩みを正式に開始。旧宗主国との関係を維持しつつ、新生国家としての統一と発展を目指しました。独立は東アフリカ地域における政治的変革を促し、後続する諸国の独立に影響を与えました。
1963年 ケニア イギリス